ケアンズ風物記
- 縁 [2008/5/15]
ケアンズ風物記
南緯17度の太陽
其の100
縁
松本主計
数年前、恩師の佐野教授(右端)とかつての木曜島分場支配人の室井さん(右から2人目)がケアンズに来られた。卒業以来、40年ぶりの再会だった。我が家で大いに飲んだ。この人たちとの縁がなかったら、私の豪州での人生はなかった。
「君ィ、僕の顔を立てて、M真珠の研究所に入ってくれ給え」。6月のある朝、いつものようにゼミに顔を出すと、待ちかねたように隣室から飛び出して来た教授が唐突にそう言った。まったく何の前触れもなかった。私は「ハァーッ ? 」と言ったまま、ポカンと教授の顔を見ていたように思う。私の卒論のゼミは鹹水養殖学研究室。研究生7名。皆真面目な研究者タイプで、私1人がDROPKICK的な存在で、卒論も就職活動もソッチのけで、空手の稽古ばかりしていた。
(写真)数年前、恩師の佐野教授(右端)とかつての木曜島分場支配人の室井さん(右から2人目)がケアンズに来られた。卒業以来、40年ぶりの再会だった。我が家で大いに飲んだ。この人たちとの縁がなかったら、私の豪州での人生はなかった
当時は東京オリンピックの翌年で、日本は好景気の真最中。いい会社に入れなかったら、公務員か教師にでもなるか、という時代だった。
高校時代、空手の稽古ばかりに熱中していた自分の性格から考えて、会社員や公務員のような仕事には向いていないのではないか、とボンヤリ考えていた。日本にはそんな仕事しかないはずだ。ホンナラ、外国に行くべ。えらく単純に思いついた。大学出の初任給が1万5,000円の時代、豪州への往復運賃は45万円。実に3年分の給料の全額。外国は本当に、夢そのものの国だった。
その夢の実現に1歩でも近づくため、東京水産大学に入学。日本の水産業が盛期の当時、水産会社は競って海外に獲物を求めていた。もしかしたら海外に出るチャンスがあるかも、と漠然と考えたからだ。
そんな私にM真珠の話。教授は言うだけ言うと私の返事を待たず、鳴り終った鳩時計のように、パッと自室に入ってしまった。私は、まだポカン!としたままだった。
しばらくして、ヤレ、こらァエライことになった、と思った。いい職場なのだろう。だから教授も勧めてくれたのだ。しかし私は、研究者、という柄ではない。第一勉強なんか大嫌いだし、授業はいつもサボッて空手の稽古をしていた。私の娘がハイスクールの時、「父上はどうして私に勉強しろ、って言わないの」と聞いたことがある。「勉強ばかりしていると、ロクな人間にならないヨ。モットお遊び」。私の答えは決まっていた。自分がしなかったことを娘に強いる程、面の皮の厚い親でもない。その代わり、空手はビシビシと仕込んだ。ハイスクール卒業まで、試験中と言えども、1日も稽古を休んだことがない。
教授には取り付く島もなかった。ウジウジしながら数日たった朝、ゼミに顔を出すと、教授がまた飛び出して来た。
「この前の話、内定したヨ。頑張ってくれヨ。これで私の顔も立ったヨ」
いつものように言うだけ言って、パッと自室に入り込んだ。後で判ったことだが、水産大には4名の内定者がほかの学部にいた。その内定者たちが学内で全員集まったことがあった。皆研究者、という職業が似合う秀才顔をした、如才のない人柄で、私1人が何やらBLACKSHEEPのようだ。何で教授は私に白羽の矢を立てたのだろう、と思ったことだ。
内定者全員のM真珠本社での正式面談の日が決った。実にその前日の夜。
「オイ、マツモトヨ、下船したゼヨ」
大学寮の事務所に電話が入った。1年上の専攻科の杉先輩。練習船海鷹丸の1カ月の乗船実習を終え、東京湾の晴海埠頭に横付けていると言う。先輩は同じ松山の出身で、卒業するまでよく面倒を見てもらっていた。
その夜どこで先輩と落ち合い、何を飲まされたのか、全く記憶にない。目が覚めると、頭はガンガン、胸はムカムカ、足はまだフラつき、目はウサギのように赤い何ともヒドイ二日酔い。その日M真珠の面接日。コリャエライことになった。
水道の水を頭からザバザバとかぶり、スポンジに歯ミガキを塗りたくって口の中を擦っても、体中から発するアルコールの臭いは消えない。ママヨ。覚悟を決めてそのまま面接に行った。面接で何を聞かれたかも、まったく覚えてはおらぬ。ただ1つ、お酒を飲みますか、と聞かれたので、ソリャ来た、と思い、ハイ、と元気よく返事をした。どれくらい飲みますか、と問われるので、2、3合くらいです、としおらしい嘘を言った。
「君ィ、何チュウ事をしてくれた !! 」。翌朝ゼミに行くと、教授がまたすぐに飛び出して来た。
「君は酒の臭いをプンプンさせて面接に出たそうじゃないか。M真珠から、君の内定取り消しの連絡がすぐに来たヨ。もう私しゃ、君の就職の面倒は一切見ないからネ。自分で探せ」
頭から湯気を立てるように言うだけ言うと、教授はまた、バッと自室に走り込んだ。ヤレヤレ、教授には恩を仇で返す結果になってしまったけれど、心のどこかで、何やらホッとする気持ちもあった。
翌年の春になり、卒論の発表会も何とか終え、卒業式を迎えた。同期生全員就職決定し、大学を巣立って行った。好景気の中で私1人職がなく、ガランとした寮に残っていた。最後の最後まで可能性を待ったのに、その年の海外からの求人は皆無だった。
仕方がない。専科にでも残るか、と思った。水産大には大学の4年終了後、さらに1年修学できる大学院のような部門があった。願書をもらってこよう。人影のなくなった寮から下駄をつっかけ、大学本館に向った。
本館の通路は昼でも薄暗い。誰かがセカセカと歩いてきた。
「オイ、マツモト、どこに決まった ? 」。水産病理学の佐野教授だった。
「まだ職がありません」
「オー、ソンナラお前、木曜島に行くか ? 」
私はその時、豪州最北端の小島を知っていた。
「ハイ !!」。1つ返事。
「ヨシ、俺の友人が木曜島から戻って来て、今一緒に飲んどるところじゃ。会わしてやるから付いて来い」
大学職員の官舎は寮と同じく、大学内にあった。古びた小さな玄関を入ると、すぐ正面に、色の真黒い迫力ある大男が2本の一升瓶を前に、胡座をかいていた。朝だというのに、1本は空になっていた。
「座れ」。胡座をかいて座ったら、
「初対面の人に何じゃ。チャンと座れ」
叱られた。「飲め」
出されたコップに、一升瓶からガバッと酒がつがれた。その色の黒い大男、室井さん。日豪合弁の南洋真珠養殖会社木曜島分場の支配人。佐野教授とは同じ水産大の卒業生の同期のサクラ。1年に1回の休暇でちょうど帰国されたところだった。
よろめく足で官舎を辞し、フラフラしながら寮に戻った。室井さんに何やら気に入ってもらえたように思う。酔いが醒めた後も、何だか夢の中の出来事のようで、ボンヤリと室井さんとの出会いを考えていた。採用してもらえそうにも思う。酔い過ぎて、半信半疑のまま数日を過ごした。そしてついに、来た。室井さんの会社からの正式な面談通知だった。私の海外への夢は、この時点で大きく開き、にわかに現実味をおびてきた。
あの時、杉先輩から1杯飲まされなかったら、M真珠に採用されていたろう。大学本館の通路で、もし佐野教授に出会わなかったら、私の豪州での人生はなかったはずだ。
ホンのチョットした偶然。これを、縁、というのなら、縁は人間の運命に何という重さを持つものか。縁とは何とありがたいものなのか。これが判かると、この思いが人間らしく真っ当に生きる、という生き様につながってくる。
サテサテ、これくらいであまり私に似合わないことを書くのは止めておこう。
今回で私の連載は百回を迎える。書くことはシンドイし、私の書くことがそんなに読まれていないことも、肌で感じている。日豪プレスとはほとんど創刊以来、1年4回の各州便り、連載の木曜島風物記、そしてこの連載と20年の付き合いになる。これは腐れ縁だ。
私は遅筆でいつも締め切り間際に原稿を送るので、編集長の原田君をヤキモキさせ続けていた。アッ、そう言えば過去2年間の原稿料の請求、まだやっていなかった !!
百回と切りがいいので、原田君に、もう止めるヨ、と言ったら喜ぶだろうと思っていたら、意に反して、もう少し続けろ。腐れ縁の延長を命令された。ヤレヤレ、これはありがたい、と思うべきなのだろうか。
つい先日、中村さんという女性から電話があった。ケアンズに転勤になったそうだ。私の連載を読んでいたそうで、ケアンズでは、私の道場に子どもを入門させたいと言う。こういう数少ない読者が一番ありがたく、私への励みになる。これがまた、彼女とのいい縁になるかも判らない。人生至るところ青山あり。
|
その他の注目記事: |


















































































