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    ケアンズ風物記
     - 運  [2008/7/10]

ケアンズ風物記
ケアンズ風物記
南緯17度の太陽
其の101

松本主計

 数年前、恩師の佐野教授(右端)とかつての木曜島分場支配人の室井さん(右から2人目)がケアンズに来られた。卒業以来、40年ぶりの再会だった。我が家で大いに飲んだ。この人たちとの縁がなかったら、私の豪州での人生はなかった。

 ズルッ、と小舟の船底が泥地を掻いた。海と陸地を結ぶマングローブの森まで、そこから50メートルばかり歩かねばならない。振り返ると海峡を隔てて、私が働いている金曜島南洋真珠養殖場の宿舎の白い屋根が、乾いた太陽の下にポツンと見えた。道具は底の深いバケツと、半間ほどの柄を付けた頑丈なタモ網。

(写真)カニは生きたまま、海水で茹でる。自然の海の香りが適度な塩味と混じり合い、これは最高の御馳走。レストランのタンクで飼ってあるものや調味料で味付けしたものでは得られない味がある。これにコクのある白ワインとビールがあれば、天国、天国

「マテ、マテ、チョットマテ !!」
 小舟の舷に手をかけ、泥地に下りようとした私を、ボブが慌てて止めた。ボブは会社が雇用している住み込みのコック。アイランダー。新参の私の面倒を、よく見てくれた。履物を置いてゆけ、と言う。その意味がすぐに判った。素足で泥地に飛び下りた私は、アッという間に、ズブズブと股のあたりまで沈んでしまった。なるほど、この泥じゃ履物では動けない。それにしても、あまり気持ちの良いものではない。ボブが歯のない、赤い口を開けて呼んだ。「LOOK FOR BLACK SPOTS !!」

 ボブが宿舎の前に立ち、海峡を隔てた対岸の島、PRINCE OF WALESを眺めている。
「どうしたエ」と聞くと、
「GOOD TIDE SOON」。……意味が判らず、
「何でだエ」。もう1度聞いた。
 ボブはうるさそうに、「カニ、カーニ」と日本語で言いながら両手を頭上にかざし、親指と人差し指をパチパチと開いて、ゴソゴソと横に動いた。蟹、とは判ったものの、その先が読めない。
 マングローブ・ガニ。通称MUD CRABとかMUDDYという名前で、QLD州全海岸部に分布する。最大体重2キロにも達する食用種。
 私は1966年、日豪合弁の南洋真珠養殖会社に技師として採用され、大学卒業後、豪州最北端のトーレス海峡の小島、木曜島分場に赴任。養殖場は隣島の金曜島に設置されていた。
「もうすぐ潮は下がってくるべ。引き潮じゃネェとダメよ。マングローブの根っこが、ポッカリと出てくる時がエエ。奴ら、泥地の浅エとこまで、カイカイ(島語で食事のこと)に出てくるべ」
 マチモトよ、一緒に来ねーか。今日のランチはカニにすべェ。GOODカイカイよ、と言う。
 40年以上も前の話だ。養殖場の作業船以外の小舟に、エンジンは設置されていなかった。ボブと手漕ぎのボートに乗り込んだ。対岸の島まで約2キロの海峡だが潮が速い。ボブが漕いだ。空が青い。海は緑。太陽が赤い。
 コリャ、エライとこに来てしまったべ、と思った。泥地の中からウンコラと足を引き抜くと、またズボッと入ってしまう。立ち往生。こんな泥地を歩いたことがない。ヨタヨタと1歩ずつ、泳ぐように歩いているうちに、少しずつ泥の中を歩く要領が分かってきた。少し慣れると、これはまったくいい運動で、結構、キツイ。マングローブの森が近づくにつれ、泥地は向こう臑ほどの浅さになった。
 何かがヌルリ、とマングローブの根の近くで動いた。浅い水面からヒラヒラと水面を割って黒っぽい物が突き出している。カニ、と思って近寄ると、1メートルほどのエイ。何とアチコチに見える。私が目と鼻の先まで近寄っても、全く意に解しない。それにしても、あまり気持ちのいい生き物ではない。
 ボブはBLACKを探せ、と言ったけれど、サテ、何処にカニはいるのだろう。静かだった。海水が生暖かい。エイを横目で見ながら、ユックリと歩いた。
 目の端で動く物がある。エイではない。泥の固まりのように見えた。近寄ると斜めに流れるように移動した。泥を黒い体のアチコチに附着させた大きなカニだった。なるほど、こんな風に見えるのか。水深はわずかに私の足首程度。サテ、どうやって捕ろうかと一瞬迷ったが、カニが動く。反射的に蝶を捕るように、タモを上から叩き付けるように被せ、すくい上げた。ズシリと重い私の最初のMUD CRAB。
 カニは誰もがCRABPOTという簡単な仕掛け罠で捕るけれど、私にはあの時の感激が楽しくて、いつ掛かるのか分からない罠は、1度も使ったことがない。罠の方が楽で効率もいいのだが、私は自分の足で追うのが気に入っている。島での生活は自給自足のようなものだった。魚はいくらでも釣れた。トロールをするとマグロ、サワラ、カマス、カンパチなどの大型魚。島の干潟に出ると、アサリやほかの大型貝類、サヨリ、ボラ、キスなどの小型魚。マングローブに入るとカニにアクールという大型二枚貝。自分で獲った物を新鮮なうちに食べる。食生活の原点があった。
 慣れてくると、時々家族でカニ捕りに出た。ソウダ、こんなこともあったナァ。娘が3歳くらいだったと思う。彼女を小舟の中に残し、私と妻で小舟を押しながら、カニを探していた時だった。突然、娘が火の点いたように泣き声を上げた。普通の泣き声ではない。慌てて小舟の中を覗き込むと、置き場のないように足を広げて泣いている娘の足元スレスレに、大きなカニが今にもアタックを仕掛けるかのように体を反らせ、爪を振りかざしているではないか。捕ったカニが大き過ぎ、バケツから這い出していたのだ。爪が擦ったのだろう。娘の脹ら脛が刃物で引き切ったように血が流れていた。
「エエナ、動くなヨ。エエナ」
 娘に言いながら、素早くタモの柄でカニを掻き出した。カニの爪がバリバリと柄を噛んだ。あの爪が娘の小さな足に食い込んでいたら、骨まで砕く大怪我になっていたに違いない。

 ズリッと素足が泥の中に突き刺さった。ヤレ、久し振りのカニ捕りじゃ。それにしてもこの泥地とマングローブの森。42年前と何1つ変わっていないように見える。振り返ると海峡を隔てて、乾いた太陽に白く光る宿舎の屋根が見える。まったくまるでタイムスリップした気分だゼ。
 つい2カ月も前、久しぶりに島へ戻った。毎日、日焼けで真っ赤になって、魚釣りをした。
 チャブリ。水がヌメルような音を立てた。アー、あの音はエイだ。オッ、いるナァ。何とこの数、エイだけはイヤに増えているようだ。かなり大きなのが、まっすぐ私に向かって来る。あまり近くなったので、「コラ、アッチ行け」。タモの柄で頭をゴンと一押ししたら、急に尻尾を振り立て、私に飛び込んで来た。ヒヤッと片足を泥地から抜き上げた。刺されたか、と一瞬たじろいだが、ヤレヤレ、エイの奴、私の足の下を通って行ったヨ。エイの中には尾部に毒性の棘がある。触らぬエイにたたり無し。カニの数だけは、メッキリ少なくなっていた。
 
 33年前、私は9年半働いた島を出て、ケアンズに下った。せっかくの外国生活、島で会社の旗の元でカンヅメになるより、自由に生きてみたかった。私には小さな夢があった。ガキのころからやっていた空手で生きてみたい。妻子があるので悩んだが、思いきって退社し、空手道場に夢を懸けた。33歳だった。
 現在66歳。まだ空手をやっている。この33年の人生。まったくいろんなことがあったゼ、とも言えるし、私を少し知った連中は、私のような人生経験を持つ人は珍しい、とも言ってくれるけれど、過ぎてみれば、何やらいやに平凡な人生だったようにも思う。
 体はまだビンビン動く。師範、と名が付けば、当り前のことだ。60を過ぎてもまだうまくなる。この年になるまで好きな空手で生き、これからも体が動かなくなるまで、好きなように続けられるのは、私も努力したけれど、家族や多くの人々の支えがあったからだ。私は人に恵まれていた。いい人に巡り会える運、があったのだ。
 運というものは、一朝一夕に身に着くものでもなければ、1年2年の短期間で考えるものでもなかろう。10年、20年を目安に、人間として真面目な生き様を通してこそ、感じるものだ。運は自分だけの満足に止めておくものでもない。空手の師範ならば、試合に勝てる生徒を育てるのが、指導の目的ではない。稽古を通して各々の人生にしっかりと立ち向かってゆける、長い目で見て運の強い人間として成長する人材を育てること。これができてこそ、私の運も本物、ということになるのだろう。
「松本ヨー、お前みたいに空手で生きるのは、面白いかもわからんが、時代に取り残されるぞ」。そう言ってくれた大学の同期生がいた。彼らはもう全員、定年になった。時代とは何なのだろう。私には流行も、現代のテクノロジーも、新聞も読まなければ、人が私を追いかける携帯電話なども、煩わしくて使用しない。自分のペースで毎日を生きている。
 島で夜半に目が覚めた。外が薄明るい。月夜かと思って外に出たら、星が音を立てて降ってきた。何と、星明かり。明日はきっと、心に染みるような青空が顔を出すだろう。

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