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豪州回顧録 最終回豪州は誰が“発見”したのか ?
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| プロフィル・麻生雍一郎(あそう・よういちろう) 1965年3月、早稲田大学第一政経学部政治学科を卒業、読売新聞東京本社入社。社会部警視庁担当を経て経済部。シドニー、シカゴ支局を開設。読売アメリカ社、読売インターナショナル社、読売香港社の社長を歴任。「移民大陸オーストラリア」の連載で第一回日豪交流ジャーナリズム賞(サザンクロス賞)。企画、取材キャップを務めた「環太平洋の時代」で第二回大平正芳記念賞をグループ受賞した。 |
日本とオーストラリアの間には第二次世界大戦を敵国として戦った不幸な歴史がある。また、20世紀半ば過ぎまでオーストラリアが「白豪主義」政策を取ったことも、両国の健全な発展に影をさした。戦後、特に日本の高度成長が始まってからの日豪関係は経済・貿易の関係に急傾斜し、お互いの文化や歴史に対する考察は遅れがちになった。オーストラリアの捕鯨船レディ・ロウエナ号と日本の松前藩は天保2年(1831年)に北海道浜中沖で戦闘を交え、嘉永3年(1850年)にも江戸幕府は北海道末広沖で難破したオーストラリアの捕鯨船イーモント号を救出のうえ接収し、乗組員全31人を半年間厳しく取り調べている。
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長政上陸の伝説が残るブービー島(提供:News Ltd) |
アメリカのペリー来航より21年も早かった、日豪の交流の跡を我々はシドニーの資料図書館「ミッチェル・ライブラリー」やホバートのタスマニア州立古文書館で確認することができる。ミッチェル・ライブラリーはレディ・ロウエナ号のラッセル船長の航海日誌を保管しており、その中には当時の北海道沿岸の様子、また、松前藩の守備陣地の状態や人の動きなど生々しい“天保の日豪戦争”のスケッチも描かれている。1831年4月15日付けでラッセル船長は「日出づる国の日本帝国、神聖なる天皇陛下へ」宛てた親書を捕虜のアイヌを通して届けているが、その中身は鎖国下の日本に開港と物資の供給を求め、日本側が敵対的立場を取るようなら「閣下の村落や船舶が被る報復は覚悟してもらわねばなりません」と最後に恫喝している。
イーモント号乗組員の日本での日々についても詳細な記録がある。地元紙ホバートタウン・クーリエがラベット船長に直接インタビューして、その航海記録を掲載したからだ。ホバートタウン・クーリエもまた会見記と合わせて日本の鎖国政策を批判する社説を掲げており、当時のオーストラリア各植民地が日本の開国を強く求めていたことが分かる。
私が読売新聞シドニー支局開設を言われたのは1978年春。以来82年まで初代特派員を務めたが、このタイミングに今でも感懐を覚えることがある。1831年の“天保の日豪戦争”の史実が日本だけでなく、オーストラリアでも長い間、知られなかったのはラッセル船長の子孫たちが日本への航海日誌などを門外不出の“家宝”として秘匿していたからだ。曾孫に当たるキング未亡人が決心をして、これをミッチェル・ライブラリーに寄贈したのは、私が赴任した1978年だった。そのおかげで私はキング未亡人に直接お目にかかり、ラッセル船長の生涯、日本での体験、当時の日豪関係などについて詳しく聞くことができた。
イーモント号のラベット船長についても孫の85歳になるレオナルド・ラベットさんがホバートで健在なことが分かり、取材に飛んだ。レオナルド老人はバラ、アジサイ、アヤメなどが咲きにおう自宅の庭で美しいホバートの港を見下ろしながら「祖父は捕鯨船を率いて世界の海で活躍し、1855年6月南アフリカ・喜望峰沖でクジラと格闘中、ボートが転覆して死んだと聞いています。海に生き、海に死んだ祖父の勇猛ぶりは我が一族の誇りです」と語ってくれた。キング未亡人も老レオナルドも高齢だった。会見は私のシドニー赴任が数年早くても、逆に数年遅れても実現しなかった、と思われる。
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1600年代、シャムを中心に活躍した |
日豪の接触は1600年代から ?
天宝の日豪戦争や嘉永のイーモント号抑留は鎖国下の江戸時代に起きた日豪交流の実例である。しかし、日豪交流の原点は1831年以前にはさかのぼらないのだろうか。私が知る限り、3人のオーストラリア人作家や詩人が日豪交流の原点がこれより200年も過去の1630年代まで遡及する可能性を示唆している。その1人、オーストラリアの国民詩人レックス・インガメルスは1951年に著した詩集『ザ・グレート・サウス・ランド』に「ナガマサ」と題した一篇を収めている。
日本のヤマダ・ナガマサは
タスマンがヴァン・ディーマンズ・ランド
に来る前に
40隻の海賊船を引き連れて
南の土地へやって来た
伝説はそう語っている
海賊王ナガマサはサンゴ海を
自分の手の内のようによく知っていた
彼はケープヨーク半島に上陸したと考えられている(註:ヴァン・ディーマンズ・ランドは今日のタスマニア島)
同じ詩集には「セイヨーとセイツォ」という詩もあり、ナガマサの航海の記録を記した書物はホージキ寺(HOJIKI TEMPLE)に秘匿されている、と書いている。彼が存命なら誰に聞き、あるいはどんな資料に基づき、これらの詩を書いたのか、インタビューしたいところだ。しかし、彼はこれを発表した4年後の1955年に亡くなっている。2人目は作家のF・ゴールドスミスで、著書『宝物、ここに埋められて眠る』(Treasure
Lies Buried Here)の中で「ナガマサがケープヨーク半島に上陸したと信じる理由がある」と書き、その記録は数世紀の間、寺の宝物殿に隠されたままになっている、としている。
3番目はナガマサの上陸拠点にまで触れている。H・ホルトハウスの『サンゴ海の船』(Ships in the Coral)で「ナガマサの宝物は今もブービー島の洞窟に埋められてあると見られている。当時の航海者たちは、この島には悪霊が住み着いていると言って先住民が近付かないと報告しているが、これは彼らの先祖が日本の海賊船と遭遇した体験に因るものだろう」と書いている。ブービー島はヨーク岬の西69キロにある、岩礁と言った方がいいくらいの小島で、オーストラリア地図を広げても見つけるのが難しい。
私はあちこちで写真を探して、やっとNews Ltd.の資料室に2枚あるのを見つけ出し、コピーを撮らせてもらった。その写真にはこんなナゾめいた添え書きが付いていた。「キャプテン・クックがかつてカツオドリを撃った場所に今は灯台がある。1890年以来、3つの家族がここに住み、外界と隔絶された孤独を分かち合ってきた。彼らは難破船から集めた宝物を守るために、今も足繁く島の洞窟に通っているようだ」
新聞記者は現場を踏んで取材し、記事にして、報告するのが仕事だ。私はブービー島まで行って、長政の宝物が眠るという洞窟を覗いてみたいと考えたが、交通の便が適わなかった。その代わりケープヨーク半島のフラッタリー岬まで行って、アボリジニの人たちから話を聞くことができた。そこで知ったことはケープヨーク半島や周辺の島々では昔から日本の船と遭遇し、船員やダイバーの日本人と交流があったという事実だ。それが400年前にまでさかのぼるかどうかは不明だが−−。
歴史学者の井上清氏は鎖国前、1600年代初期の日本人の海外での行動半径について「朱印船で海外に渡航した者は延べ7万人以上と推定され、ほかにポルトガル、スペイン、オランダ船での渡航者も多かった。鎖国に至る1世紀足らずの間に1万人ほどの日本人が台湾、ルソン、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、マライ、ジャワなどに植民した」と記している。
なおざりにされた植民者の記録
オーストラリア北部とジャワ、パプアの間に横たわるティモール海、アラフラ海は普段は波穏やかで、東ティモール紛争の時などは大勢の難民が漁船や小船でダーウィンなどに辿り着いた。17世紀初めまで朱印船で東南アジア一帯を航海していた日本人、なかでも首領級の山田長政などがオーストラリアまで来ていたとしても、不思議なことではない。ただ、江戸幕府が鎖国政策に転換すると、日本人の出国はもとより、これら海外植民者の帰国まで制限し、最後は禁止した。海外植民者たちのその後についても調査はなされず、長政の足跡についても、不明な点が多い。
今後、日豪、あるいは東南アジアのどこかで長政のケープヨーク半島上陸を裏付ける記録が見つかるかもしれない。オーストラリア北部ではシャム製の壺の破片などが発見されることがあり、あるものは1600年代の制作と見られているという。いったい誰が400年前にその壺をオーストラリアまで持って来たのだろうか。キャプテン・クックより1世紀半も前に山田長政がオーストラリアに上陸していた、という伝承が実証されれば、日本史、豪州史はもとより世界史が書き換えられることは必至だ。日豪両国の交流の原点を探る実証的調査と研究が、専門家、素人を問わず進むことを期待したい。
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