極楽とんぼの雑記帳
- 23人の8年生 [2008/8/28]
極楽とんぼの雑記帳181
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子
23人の8年生
S.J.に入居して1カ月目、ここから車で40分ほどのところM町の、中学、高校のSt.Petersで教鞭を執るMさん(長女の親友)から、8年生を対象に被爆体験について話をしてほしいという打診を受けた。私が広島の被爆者であることを彼女が知ったのはその数日前の「母の日」。長女が海外に行っていたのでM夫妻が私を昼食に連れ出してくださった時だ。Mさんと長年親交のある女教師を交えた4人での会食だった。夫妻からS.J.の住み心地を訊かれ、「部屋がもう少し広かったら…」と答えたがすぐに「でも、それよりもっと狭いバラックで缶詰の鰯のように並んで寝たことを考えれば…」と付け足すと、ピンとこなかったと見え、訳を訊かれた。原爆で破壊され全焼したからだと知った3人は大いに驚き、それからは質問責め。確かに缶詰の鰯さながら家族全員がぎっしりと並んで寝たこと、寝相の悪い私の隣に寝た妹には気の毒なことをした、などなど当時を思い出しながら面白可笑しく喋ったものだから(惨めな話なのに私の口から出ると、どうして笑い話になってしまうのか…)笑い声が上がり、そしてすぐに「笑い事ではありません」と真剣な表情に戻って、話はいつ尽きるのか判らぬほど進んでいった。学校訪問の依頼を受けたのは、その数日後のことだ。
5月20日、Mさんと訪問中の妹さんに迎えられ学校へ向かった。近い将来、増築されるのであろうか、広い敷地とまだ新しい校舎。授業中だろうか生徒の姿は見えない。職員室に案内された。和やかな雰囲気が感じられた。驚いたのは8年生担任の教師、Jさんに私は18年前にキャンベラで紹介されていたことだ。長女が奉職したキャンベラの名門校Rカレッジの新任教師だったJさんがいまだ学生のような青年だったのを覚えている。18年後、ここで再会するとは夢にも…という感慨は双方同じだったろう。かたやキャリア豊かな壮年教師、そして私は、有料ホームの新入生…。本題に入る前に横道へそれてしまったようだ。
私の出番の時間が来た。J先生と美人のC先生に導かれて教室に入る。23人の少年、少女たちの視線が一斉に私に注がれた。注ぐと言うより凝視である。8年生と言えば13歳か14歳。彼らの祖母よりもっと高齢で、しかも原爆生き残りの訪問を受けることなどまずあり得ないだろうから、当然と言えるだろう。彼らの視線から素直な感受性を私は感じたが、それは間違ってはいなかった。まず質問を受けることから始めた。活発に手を挙げる生徒たち。女生徒の質問が多く、誰もが知りたがっていると思われる、実に的を得た質問の数々は驚きだった。私の一言一句を喰い入るように聞く緊張した顔、顔…。しらけた表情や無関心、退屈した表情は全く見当たらなかった。悲劇の極み、生き地獄の状況の説明に切羽詰まった表情の生徒たち。あまりにも悲しい話に私自身涙を堪え切れぬ時、幾人もの女生徒たちが泣いてくれた。
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8月6日のあの朝、前々夜からの下痢で弱っていた妹(当時、広島女学院2年生)の登校を私は止めた。登校したら市中へ狩り出され、勤労奉仕と名付けた肉体労働を強いられる。もともと虚弱体質の妹、しかも衰弱しているのだ。学校に留まった生徒、市中に狩り出された仲間たち350数名が死んだ。学校に残った生徒たちが礼拝堂にいた時に原爆が投下された。たまたま礼拝堂から出ていた級友が怪我をして戻ろうとしたが、倒壊しており助けを求めて泣き叫ぶ級友たちの声を聞いた。何もしてあげられない。火の手が迫る。その時、泣き叫ぶ声が急に静かになり、崩壊した建物の下から讃美歌「主よ み許に近づかん」を歌う声が聞こえてきたという。級友は「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながらその場から逃げたという。
半年後、その級友に再会した妹からこの話を聞いた時、私の涙は止まらなかった。心の底から政府を憎み、戦争を呪う思いが煮えたぎった。私の言葉は震え、「彼女たちは今の貴方たちと同じ年齢だったのですよ」と言うのがやっとであった。
小学校以来の親友T子の弟K君は、翌年の春、小学校へ入学するのを楽しみにしていたのにあの朝被爆した。母親が倒壊した家から弟(I君)を連れて這い出した時、血だらけになったK君を見つけたが何もしてやれず母子3人川端の桜並木の方へ逃げることにした。するとK君は「I君をおんぶしてあげて」と譲り、とぼとぼ歩いて川端に辿りつくなり倒れた。近くに居た軍医が血に染まったK君の上衣をめくると、腸が飛び出していたという。そしてK君はうわ言を言ったのだ。何と言ったか ? 学齢期にも満たぬ幼児K君が遺した言葉、それは「天皇陛下万才」だったのだ ! 男は皆、戦死する時「天皇陛下万才 ! 」と叫ぶ…と聞かされていた幼な子が、自分の死を察知したのか…。自分が男であることを自覚して口走ったのであろうか…。今も私は思い出すたび、我が祖国でありながら憎しみと怨嗟が噴き上がる。そこまで国民を追いつめた国の政府を63年経った今も…。
被爆して半年後、学校の焼け跡へ帰った妹は、校庭の片隅にある瓦礫の中に中身が炭になったアルミの弁当箱と仲間の誰かの骨を見つけた。後年、妹が絵本「わたしのヒロシマ」を世に出す決心がつくまで、長年悩み続けていた。この本は、母校、中学部の英語副教材として取り上げられた。原爆投下のため、あまりにも早く地球上から抹殺された仲間たちへの鎮魂と、平和への渇望をこめた「My HIROSHIMA」を私は携えて行き、先生に預けてきた。熱心に、真剣に私の話に耳を傾け、涙してくれた生徒たちに読み聞かせてもらいたかったからである。
「平和がいかに大切であるか判ってくれましたか ? 」。私の問いに全員が頷いた。「その平和を守れるのは皆さんです。お願いしましたよ」。それにもしっかりと頷いてくれた生徒たち。それは、大きな感動の波となって私を包んだ。生徒たちの真摯さ、純真さ、礼儀正しさに私は圧倒され、訪問の手応えを強く感じ、記念撮影のあと、感動の余波と充実感に包まれ私は学校を後にした。
筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)。1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子供がある。現在キャンベラ在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。
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