極楽とんぼの雑記帳
- 私の回り行灯 [2008/3/15]
極楽とんぼの雑記帳176
私の回り行灯
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子
筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)。1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子供がある。現在キャンベラ在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。
文章や話す言葉から「走馬灯のように、云々」という表現に、今までどれほど出会ったことだろう。実に容易に引用され、相当手垢のついた表現だと思う。実際に走馬灯を見、知った上での表現なのか、どうなのだろう。
昭和一桁のころ、とても器用だった父が作った走馬灯、私たちは「回り行灯」と呼んだ。影絵にする切り絵も父の作で、記憶の中に富士山を背景にして浮かぶ数艘の、大小の帆かけ船の姿がある。行灯は二重になっていて切り絵は内側に貼ってある。それが、外側の和紙に影を移しながらゆっくりと回転する。夏の夜、灯りを消した縁側で、現れては消え、消えては現れる影絵は単調ながら結構幻想的だった。打ち水をした庭から漂ってくる匂い、蚊取線香の匂い、母が煽ぐうちわの音…これらは子ども時代の夏の夜の風物詩として、長い歳月にも褪せることなく脳裏に生残る。
切り絵の数には限りがあり、やがて子どもたちは飽き、眠くなる。けれども次の晩になると、「お母ちゃん、回り行灯に火つけてやぁ」と、必ず弟か私がせがんだ。今の子どもはこの単調な物を、次の晩も見たがるだろうか。私は、父の手製のものしか知らず、市販されているものを見た覚えもない。「走馬灯」と呼ぶからには、馬が走っている影絵だったのだろうか。どうすれば内側が回るのかそのメカニズムを知らなかったが、現代の子どもなら簡単にそのからくりを見破るだろう。
思うに、誰の心にも走馬灯が存在するのかも…目にしたことはなくてもイメージとして。だから脳裏に去来する忘れ難い思い出、情景などの表現に走馬灯を引用するのかも知れぬ。私の裡にも走馬灯…いや、回り行灯が存在する。それは、限られた数の影絵ではなく、終りのないビデオかDVDとでも言おうか。私の回り行灯が回り始めると、時間の感覚が停止する。思いもかけなかった場面や人物が、何かに誘発されたのか、突然踊り出てくることがある。えっ ? と思うがやはり懐かしく、やがて引き込まれてゆく。
夫が友人から聞き、話してくれたある出来事。私の体験ではないのに40年を経たつい最近、私の回り行灯にひょっこり現れた。目撃もしていないのに情景となって。不思議といえば不思議だが。
夫の友人(軍人Kとしておく)はVIC州のマウント・ダンデノンに土地を持っていた。春、花盛り、自分の土地でピクニックをと仲間たちを誘って出かけたところ、2台の車が止まっており、子どもを交えた一行がピクニックの真最中。酔っ払いの大声、空きびんやくずが散乱して落花狼藉※。厳しい抗議をと思ったが、K氏は2台の車の番号を書きとり、黙ってその場を去った。
おかしいのは後日談だ。車の番号からどうやって持主の住所を突き止めたのか知らぬが、友人は数人の仲間を誘い、突き止めた住所へ行った。そして、前庭の芝生にシートを広げピクニックと相成った。飲み、食べ、陽気に騒ぎ、空きビン、缶類は芝生の上へ放った。家から誰も出て来ないので、拍子抜けしてきたころ、家人のご帰館 ! 猛烈になじられたK氏は、待ってました ! とばかり、「何月何日の土曜日、君たちグループは無断でうちの土地で同じことをしたでしょうが。その真似をしてなぜ悪い」に続く傑作は、彼の土地に放置された遺棄物(後日、彼は拾ってきた)をダンボールから芝生に移しながら「忘れ物のhome delivery ! 」。相手の反応を面白おかしく語る彼の話にその場にいた一同(同行したという仲間も)抱腹絶倒したそうだ。
私も現場にいた気分になり大いに笑ったが、その反面、K氏の常軌を逸したアイデアと執念には実に恐れ入った。この話が回り行灯にインプットされていたのかどうか。でもひょっこり現れたところをみると、やはり印象深かったのだ。
さまざまな思い出、情景、登場する人物…限りないそれらの中で、「悲しみ」は、随分つらいことだが、歳月の流れとともに、徐々に癒える可能性があるし、諦めに到達することもあり得る。しかし、「悔い」は私の場合いつまでも「悔い」で、ほろ苦い「罪の意識」として残ることが多いのだ。
私が19歳になる少し前の早春のことだった。父の使いで愛媛県の桜井へ行った。翌日、今治港から広島の宇品港へ向かう船で、母子連れの若者に会った。船室を出て瀬戸内海を眺めていた時、その若者が私の近くに立ち、少し間を置いてから自己紹介をした。偶然にも私と同姓で大学生だった。召集令状を受け、今治市の祖父母に別れの挨拶をしに行った帰途という。日本人としては長身で神経質そうな色白の顔だった。彼は背後の船室が気になるらしく時々振り返る。見ると、窓越しに母親の顔があった。高価な着物で作ったのが一目瞭然のもんぺ姿、お高くとまった印象を与える中年女性だった。若者の言葉はぎこちなく、私は他愛もない短い会話をしたと記憶する。早春の海風が肌寒く、私はデッキから離れた。
宇品港に着き下船。母親の後を行く若者が折り畳んだ紙片を、素早く私の手提げの中に入れたので驚いたが、私は黙って下船した。母子が乗る電車が着いており、彼らはそれに乗った。電車のステップに足を掛けた若者が、私を見つめ軽く会釈をし、私も会釈を返した。手帳を切り取ったと思われる紙片には、「同姓なのも何かの御縁と思う。船では言いたいことが何も言えなかった。明後日、午前10時、福屋の正面玄関の外でお待ちしている。もう1度お目にかかりたい」。こんな意味のことが丁寧な言葉で書かれていた。動揺し誰にも相談せず、結局私は行かなかった。
後年、私は罪悪感に似た自責と悔いを意識するようになった。生きて再び祖国へ戻れぬかも知れぬ若者の(女友達がいなくても不思議でなかったあの時代)、あれは青春の名残りだったのでは…。じっと待ったであろう若者の姿を思い浮べる時、取り返しのつかぬ悔い、自責、申し訳なさが、寒々とした暗い影となって、私に忍び寄る…。
※物が乱雑に散らばっている様
注:なお、前回とイラストが同様になりましたことご了承ください。
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