極楽とんぼの雑記帳
- 「千ちゃんファンド」 [2008/5/19]
極楽とんぼの雑記帳178
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子
「千ちゃんファンド」
1月に2度シドニーへ行った。1度目は、今年も元旦を妹母子プラス愛猫・千太郎と迎えるため。2度目は孫娘の21歳の誕生日を祝うために。妹母子に空港で迎えられ、家に着くなり千太郎の姿を探す。失禁するようになった老い猫の侵入を防ぐため、廊下の突き当たりにゲートが取り付けてあった。千太郎は長椅子の左端(彼専用の席)に横たわり、私の呼ぶ声にすーっと顔を上げ、瞑想的な一べつをくれたが、再び横になり微動もしなかった。聞いて知ってはいたが、リビングの有様はまさに別世界だ。妹の住居は、浴室を除き木の床で、敷いてあるのはリビングの絨毯と廊下のランナーだけ。
ダイニング・キッチンの床から一段下がったリビングの有様は異様の一語に尽きる。ビニールシートで被った床の上におびただしく敷きつめた新聞紙は、近所の親しい母袋家からの度々の差し入れだそうだ。さらにその上に“ペット・コントロール”と称するシート(ペットのお洩らしを吸収する)が点在。長椅子、肘掛椅子もビニールでカバーされ、タオルとペットトレーナーが敷きつめてある。最近人間のベッド用大型パッドを敷き、さらに猫クリニックが取り寄せてくれた人造羊毛の敷物を利用している。丸洗いできるし、もし漏れた場合その下に敷いてある人間用のパッドが吸収。表面は乾いた感触なので猫が安眠できるというわけ。千太郎はいつも自分が選んだ専用の位置で寝ている。ダイニング・キッチンの床やリビングの新聞紙に失禁したのを見つけると妹は直ちに始末をする。ベランダや庭のコンクリートの場合は洗い流す。屋内では消毒を兼ねデトールを使うせいか私が覚悟していた異臭はしない。だが、これでは妹が参ってしまうのでは ? ととても心配だ。
手術の成功はなしと診断された千太郎の脳の疾患は腰にも及び、排尿のコントロールがきかず後脚の歩行も困難だ。猫専門の獣医は、猫の尊厳と安楽死について説いたそうだが、ひどい苦痛がある様には見えぬし、少量ながら美味しい物を喜んで食べるし、夜、玄関の石段に座り表を眺めて楽しんでいるらしい。まだ生きていたいのではあるまいか…長年大きな慰めとなってくれた彼の、1つきりの命を人間の常識で葬っていいのだろうか…かわいそう、かわいそう…と、決断しかねている妹の、止むに止まれぬぎりぎりの悲しみ…痛いほど私は理解できる。
千太郎の阻喪、衰えが目立ち始めたのはここ数カ月だ。彼の失禁を発見した当初、妹がぼやいたところ甥が「お母さん、千太郎は病気なんです。彼のせいではありません」とかばい、自分で処理をした。以来、妹は小言を言わず、てきぱき処理をするようになったそうだ。千太郎の頭を撫でながら、この小さな頭の中でいったい何が起こっているのか、苦しいのだろうか…と、私はつらくなる。彼が元気だったころ、妹に電話をかけ、時々千太郎に替わってもらったものだ。「お姉ちゃん、千太郎がグルグル(のどを鳴らす意)いうとるよ。お宅の声が判るんだねえ」と言ったことがあり嬉しかったが、近ごろはもうやらない。耳は脳に近いから苦痛を与えたくない。廊下にゲートを付けてなかったころ、夜中に千太郎がベッドにどすんと(何しろ体重7キロ)上がって来たあの感触をもう再び感じることはないのだ。例えゲートがなくても彼に跳躍力は残されていない。憐れである。彼の脳裏に、かつて豹か忍者のように神出鬼没、精悍に活動した記憶が残っているだろうか、なぜ今の自分にその能力がないのかという思考力があるだろうか…。あるとしたら彼にとって何という残酷、哀しく切ないことか。私たち姉妹にとっても哀しく切ない。
このごろは妹母子2人がかりで千太郎を沐浴させている。屋外で座ったまま排尿することがあり不潔だから。はじめはもがくが、さして抵抗もしないのは意外だった。猫の15歳は人間の何歳にあたるのだろうか。過去度々の治療、手術を受けている。ある日、妹の「千太郎よ、あんたの飼い主はメディケアなのにお前さんはプライベートの健康保険。たまには100ドル札でもくわえて来たらどお ? 」に思わず噴き出した。
キャンベラへ帰る前、私は冷凍の鮪のトロとアイフィレット1本を千太郎に買ってやった。高いのに贅沢だと妹母子は言ったが、これは私のためなのだ。長年私たちの慰めになってくれた千太郎、もう先は見えている。私の皿のトロを与えたら食欲のひどく激退していた彼が悦んで食べた(鮭の刺し身に見向きもしなかったのは、「鮭の燻製や刺し身が苦手の私に似たんだね」と私)。せめて残された彼の“食べる楽しみ”を叶えてやりたい。でなければ私は後悔し続けるに違いないから。
「何か買ってやって」と妹に金銭を渡そうとしても、彼女が絶対に受け取らないのは百も承知の私が数年前に思いついた策がある。「千ちゃん基金、または、千ちゃんファンド」と称し、時々送っている。受取人(?)は誰でもない「千ちゃんなり。お宅ではないよ」という意味だがら文句の付けようがあるまい。封筒に「飼い主にピンハネされるなよ」と書き添えたこともあった。とにかく、ノースブリッジの妹宅は千太郎抜きでは考えられない。要するに彼は、我々の“掌中の珠”であり、私たちの心にずっと、ずっと生き続けるのだ。悟ったのか諦観したかのような表情で、ひっそりと横たわる今の姿と、精悍そのものであり、そして超甘えん坊だったころの姿とともにいつまでも。そう、いつまでも鮮やかに生き続ける。
猫にとっては致命的と言える行動の不如意と絶望的な病い、これらから、妹の納得できる安楽な大往生により、永遠に解き放たれますように、そして妹が心身の健康を取り戻しますようにと私は朝晩祈っている。千太郎を失う日が必ず来ることを覚悟はしていても、嘆きの深さを思い、耐え切れぬほどつらく悲しい。
千太郎よ。飼い主でもない私によく馴ついてくれたねえ。楽しかった貴重な日々をありがとう。うっとりとした表情でお前が鳴らした温かい“のど”の感触が、私の手にしっかりと遺されているよ。千太郎ちゃーん !
筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)。1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子供がある。現在キャンベラ在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。
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