極楽とんぼの雑記帳
- Sの最期 [2008/4/22]
極楽とんぼの雑記帳177
Sの最期
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子
だいぶ前のことだが、映画『Memoirs of a Geisha』を観た時、複数の受賞作品なのに違和感が付きまとった。フォトグラフィーのアカデミー受賞者は甥と同窓、シドニー北部で共同で家を借りていた時期があった。この部門の受賞に口を挟む気は毛頭無いが、衣装部門の受賞には頷きかねた(日本人の作品ではないので仕方がないか…)。
私の記憶にある芸者の着付けは、深く抜いた襟の付け根が肩の両端にあり、そこから流れる手首までの線の嫋やかさ。だが、映画では襟の付け根から袖巾狭しと張り出る逞しい両肩…。昭和の初め、広島にも電燈はついていたのに京都祇園の置屋で、手燭を使うシーンには笑った。
まあ、門外漢の私が御託を並べても始まらぬから止めるが、芸者といえば子どものころ、一般の家庭と芸者の接点はないに等しかった。近所に以前先斗町の芸者だったという女性がいた(福井の小母さんと呼んだ)。彼女に私は「てえ子はん」と呼ばれ可愛がられた。京都士族で旧家の跡取り息子と駆け落ちして広島へ来た。時代は経済世界大恐慌、家計を助けるためお茶屋で仲居をしていた。母から三味線を習っていたが覚えが悪いので、ほんまに先斗町の芸者だったのかしらん…と母が首を傾げたそうだが、子どもの目にも小母さんは大層美人で香水の匂いがした。そしてお尻のことを「おいど」と言った。
彼女のことはさておき、現役の芸者と何の接点もない私にこんな思い出がある。差し詰め私の『Memoirs of a Geisha』といったところか。昭和14(1939)年、女学校の2年生だった私は、広島市内の小学校で催される「出征軍人家族慰安会」で上演される少女劇「俄人形」に出演のため、5人の仲間と集合。科白より歌が主の他愛もない劇。講堂の舞台の裏側が楽屋だったが、出番を待っていた時、そこにぱあっと花が咲いたように3人の芸者が入って来た。白塗り、日本髪、左褄をとった姿は今日の感覚では異様に映るだろうが、私には結構「キレイ」に見えた。驚いたのは、その中に見覚えのある顔があったからだ。
私の記憶に明確に残る顔。3年前、父方の従兄Mの婚礼に家族そろって招かれた。披露宴は伯父宅。襖をとりはらった大広間の下座の隣室が子ども連中に当てがわれ、大人の膳とは異なり食卓やテーブルをつないだ上に載った御馳走が私たちのものだった。子どもたちが舌鼓を打っていた時、玄関と座敷の間の廊下にしずしずと芸者が現れたので吃驚。私は目を見張っていたに違いない。
真中の芸者が敷居際に手をついて挨拶。両側の2人は少し後ろの位置だったから真中の芸者が姐さん株だったのだろうか、その後には三味線箱と鼓(小太鼓だったかも)を携えた男性が控えていた。
3人の芸者が私たちの部屋の前を通り過ぎる時、いい匂いがしたのを思い出す。3人がどんな芸を披露したのかつぶさには記憶しないが、真中にいた芸者が三味線と鼓だったか小太鼓だったかの伴奏で舞った。結婚を祝うめでたい舞台だったのかも。3人がそろって賑やかに踊ったのを覚えているのは、私もよく口三味線で真似た「元禄花見踊り」を母が三味線で弾いたからだと思う。
何しろお座敷で実物の芸者を見たのは初めてだから、どきどき、うっとり見惚れたに違いない。最初に1人で舞った芸者は異様に大きな眼をしていたので「フランス人形の眼」と思ったから記憶に強く残ったのであろう。
3年後、彼女が現われ、あの人だ ! と確信、わくわくしながら彼女に声をかけた。3年前のこと、伯父と従兄の名や住所など…。彼女は首を傾げたが、母の三味線で3人が元禄花見踊りを…と言った途端に思い出してくれ、とても嬉しかった。
このやりとりを少女劇出演の仲間たちが厭な目付きでじろじろ。厭味を言われた。芸者を蔑視、まるで穢らわしい存在のような言いぐさに腹を立てた私は、鋭い反論の言葉を吐いたものだ。
あのお姐さんが業界の売れっ子だったかどうかは知る由もないが、それから2年後、日本は太平洋戦争に突入している。彼女はどのような人生を辿ったのであろうか。
ところで、新郎の従兄Mだが、親類縁者の間でよく取沙汰された放蕩息子だった。バーやカフェ(cafeと発音せずカフエーと発音、店内は妖しげに薄暗く、厚化粧の女たちを相手に飲んだり抱き合って踊ったり。男客だけが行く店だったようだ)の熱心な常連だったという。
私はMが怖く嫌いだった。従兄というよりオッサンに見えたし、芝居や映画で見たことのある化物蝦蟇のような大目玉をしているくせに私のことを「おい、大目玉ァ」とからかう。
小学校低学年の夏、親類数組で船(ポンポン船)を雇い瀬戸内海へ遊びに行った時、デッキにいた私をしょいっと抱き上げ、泳いでいた連中の真只中へ「大目玉見参じゃあ」と投げ込んだのである。犬泳ぎしかできぬ私、ぶくぶく沈む時の物凄い恐怖 ! 川でしか泳いだことのない私が飲んだ海水の辛さ ! 以来ますますMが嫌いになった。
そのMが嫁さんを貰ったのだ。婚礼の時初めて会った彼女は、息を呑むほど美しかった。数年来Mに囲われていたという。
Mにそっくりの2歳の男の子がいた。新妻のSは、当時の日本人には珍しく鳩胸、後に突き出た丸いお尻。和服を着ると、ひどくしどけないと周囲から言われていた。マリリン・モンロー全盛期に私は日本にいなかったが、Sは和製モンローの異名をとっていたそうだ。
生家は瀬戸内島の半農半漁。赤ん坊のおむつを替える仕草にも色気が滲んでいた、というから、Sの色気は生まれ持ったものだろう。
70代のSに会った時、余りの若さと美しさに、60歳未満の私は圧倒された。Mの没後、男出入りが絶えないというので子どもたちから絶縁されたSが、独り暮らしのマンションの浴槽で息絶えていたと聞いた時、私は思った。“男出入り”が絶えなかったのも、性的魅力にあふれていたのも彼女の意思ではない。生まれながらに背負わされた彼女の「業」だったのだと。
Sは私に優しかった。近くを通ると必ず「てぇちゃーん」と呼び入れてくれた。
私は、しめやかにSの冥福を祈った。
筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)。1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子供がある。現在キャンベラ在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。
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