インタビュー
- Giorgio Armani 「マエストロ・ディ・マエストロ」で あり続ける理由 [2008/11/18]
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| 完璧主義者、帝王、マエストロ…。彼を語る言葉は尽きない |
世界を魅了するファッション界の巨匠
ジョルジオ・アルマーニ
Giorgio Armani 「マエストロ・ディ・マエストロ」で あり続ける理由
今年74歳にして世界5大ブランドの中で、ただ1人の現役デザイナーであるジョルジオ・アルマーニ。“引退”の二文字は彼の中に存在していないように見える。2007年11月7日に東京・銀座にアルマーニ史上最大規模となる旗艦店をオープンさせてから1年が経った今、彼の半生を振り返りながら、ファッション界の第一線に立ち続ける秘密に迫った。
(取材協力:Giorgio Armani Australia)
「アルマーニ銀座タワー」の成功
歴史と最先端の文化が溶け合い高級な雰囲気をかもし出している粋な街、東京・銀座。そんな場所で異彩を放ちながらもすっかり溶け込んでいるアルマーニ銀座タワーは、11月7日でオープン1周年を迎える。
「銀座はここ5年で世界有数のファッション・エリアへと成長、ミラノやパリと並ぶファッションや高級品のショッピング街となった。世界各地から多様なお客様が訪れる文字通りの交差点であり、そこで生み出されるエネルギーや刺激は非常に魅力的」とアルマーニは評する。
地上12階、地下2階建ての建物外観に施された竹のモチーフは、アルマーニ自らが「繊細でしかも耐久性のある性質を持つ竹は、この国を表現する素材としてまさにぴったり」と、イタリアの建築家、ドリアーナ&マッシミリアーノ・フクサスへデザインに使用するよう依頼したという。ファッションのみでなく、スパやインテリア、食などアルマーニの世界に存分に浸れるコンセプト・ストアは、ミラノ、香港、ミュンヘンに次いで銀座が4店舗目だ。
ブランド好きといわれる日本人の間で、10階にあるイタリア料理レストランでの食事は、既にステータスとなっているほか、ここを目当てに銀座を訪れる人も少なくない。最高峰のブランド力を見せつけ、銀座の一大デスティネーションとして定着させた。
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| 豪出身女優のケイトとは互いを尊敬し合う間柄 |
タフ・ガイのルーツ
「引退を考えたことがあるかって ? 」記者の質問を繰り返すと“Yes”と答えた。「朝、何度か。(世界中にある自分の)家を訪れて、セーリングをしたり田舎に行ったり、犬と散歩したりピカソを買ったり…。でもそれは終わりを意味するんだ、私の人生は働くことだから。何をすればいいんだ ? って、空っぽになってしまうだろう。同年代の人と旅行する趣味はないし。私に挑戦してくる若い人たちといた方がシャープでいられるし、今につながっていられる。だから続けているんだ」。後継者については「今絞り込んでいるところ」と言うが、ここ数年、彼はずっとそう言い続けている。そのエネルギーはどこから沸いてくるのですか ? という問いには、「ただ、実行するだけ。しなければならないからね」と肩をすくめる。
バイタリティーにあふれたジョルジオ・アルマーニその人を理解するには、彼の生い立ちを知らなければならない。
アルマーニは1934年7月11日、イタリア北部の工業都市ピアツェンツァに生まれる。5歳の時に第2次世界大戦が始まり、ファシストたちのオフィスの裏で働く父から離れ、母マリゥ、兄のセルジオ、妹ロザンナとともに近くの村へ移り住んだ。クラスメートが戦火に倒れ、自身も40日間入院する大怪我を負うなど、後の成功など夢にも思わない日々だった。
多大なインスピレーションを受けている映画に出会ったのもこのころだが、「初めてイタリアのネオ・リアリズム(第2次世界大戦前後の貧困層や労働階級を描いた映画)を観た時は、全く楽しめなかった。まさにそういった人生を送ってきたし、思い出したくなかったんだ」と言うように、彼にとって不遇の時代であり、後の人生に大きな影響を及ぼしている。
もう1つ、アルマーニを語るのに欠かせないのが母の存在だ。
「ある夜、両親が兄を連れて出かけ、妹と私が留守番をしていた。その時、以前観た怖い映画がどうしても思い出されて、両親が帰宅した時に私は泣いていたんだ。どうしたの ? と尋ねる母にそのことを言ったら、引っ叩かれたよ。その後は全く怖くなくなった。彼女は言葉少なで、よく選んだ言葉でしか話さない」。崇拝ともいえるほど深く敬愛していたという母は、子どもたちに軍服やパラシュート生地から服を作ったという。またある日、ジョルジオ少年が驚いたのは、ベッドカバーに付いているフリンジを切り取って彼の人形の髪の毛に作り直した時だった。勇ましくも愛にあふれた母の存在は確実に彼の源の1つとなっている。
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ジョルジオ・アルマーニ設立と台頭
成績優秀だったアルマーニは20歳で医学を志すものの、わずか2年で徴兵により医学の道を断念。そんな彼の元に、ミラノにある百貨店のラ・リナシェンテで働く友人から、新しく広報室がオープンするという情報が舞い込む。見事、面接を突破し、晴れてディスプレー・アシスタント兼バイヤーとしてファッションのキャリアをスタートさせたアルマーニに、間もなくして、後に公私ともに最愛のパートナーとなる建築家のセルジオ・ガレオッティとの出会いが訪れる。「彼はすべてにおいて洗練されていた。話し方、身のこなし、洋服、笑い声まで、すべて」。
ラ・リナシェンテで過ごした7年間でディスプレーや販売のノウハウを身に着け、紳士服のデザイナー、ニノ・セルッティの元で仕立てと製造技術の習得に没頭。そして1975年、アルマーニがデザインを、ガレオッティがビジネス面を担当し、ジョルジオ・アルマーニを立ち上げることとなる。アルマーニ40歳の時だった。
70年代半ばまでフランス人デザイナーの独壇場だったファッション界。しかし、とりわけ伝統的な高級婦人服に囚われていたフランスの服飾産業は、60年代後半から拡大し始めた既製服市場を採用せず、衰えを見せ始めていた。例外はイブ・サン・ローランだったが、それも70年代半ばには失速。そこに登場したのがアルマーニやジャンニ・ヴェルサーチに代表されるイタリア勢だった。イタリアでは、服の既製品化をいち早く取り入れ、製造業者たちが地元のデザイナーたちに有利な条件で投資し始める。製造やマーケティングを請け負い、利益の何%かをデザイナーに支払うことでデザイナーたちは借金から開放され、ショーや広告も打てるという訳だ。アルマーニは大手製造業のGFTと取引を開始した。彼は才能と同時に運にも恵まれていた。
当時のデザイナーにとって紳士服と婦人服を同時にデザインするということは考えられなかったが、彼流の美学を持った革命的なデザインや着こなしは、紳士服の常識をぶち壊す衝撃的なものだった。また、働く女性に向けて70年代のヒッピーやパンクに代わるユニセックスなスーツ・スタイルを提案したのもアルマーニだ。
「60〜70年代のスタイルが嫌いだった。ミニスカートをはいた女性たちはまるで太い足のロースト・ピッグみたいだ」。人々がより優雅で毅然としていたという30〜40年代から着想を得て、年齢にふさわしい保守的なスタイルの提案、それまでの重厚で堅苦しかったスーツから固さを取り払い、美しい素材と紳士服の仕立てを融合させた柔らかく、脱・構築的なスーツを確立した。
ベージュやグレー、黒といったシンプルな色の選び方、素材の使い方、そして何よりその脱・構築的な仕立てはファッション・デザインだけでなく現代でも多くの分野の人に影響を与えている。
また、彼を世界的に有名にしたものには、映画界での成功がある。顧客の1人だったアメリカの映画監督ポール・シュレイダーが、次回作の衣装を頼んだことだ。この『アメリカン・シカゴ』で、当時まだ無名だったリチャード・ギアがセクシーにアルマーニを着こなして話題となり、アメリカ経済の好調とも重なって新興セレブたちの間でアルマーニがもてはやされるようになった。82年には“Giorgio's Gorgeous Style”という特集でアメリカ「TIME」誌の表紙を飾っている。
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| ビヨンセの妹、歌手のソランジュもアルマーニ・ファンの1人 |
栄光に隠された愛と孤独
今や世界中に広がる店舗は350以上、5,000人以上の従業員を抱え、アルマーニ・ジーンズからアルマーニ・プリヴェまで幅広い価格帯の市場を開拓し、家具やコスメも発表、ホテルの展開も行っている。
売り上げの一部をエイズ基金に寄付するなど、壮大なチャリティーのビジョンも持っている彼だが、ほとんどをミラノのオフィス横のアパートで過ごすという。ホリデー中に世界に8つある別邸に滞在する時は、妹のロザンナと彼女の息子、兄セルジオの娘のシルヴァーナ(いずれもアルマーニで働いている)というわずかなメンバーで旅行するのだとか。
「上流階級の人たちの中では居心地があまりよくないんだ。自分じゃない感じ」と認める、超が付く億万長者は、意外にもつつましい生活を送る。朝7時に起床、毎朝個人トレーナーとともに実年齢の半分の若さといわれる体を鍛えることから1日は始まる。トレードマークの紺のTシャツとジーンズ、白いレザー・スニーカーに身を包み、9時15分に仕事をスタート。ヘルシーな昼食の後に15分の昼寝を挟み、午後8時にオフィスを出る。夜は猫とともにテレビを観たり、テラスやプライベート・ガーデン、ジムやプールで1人の時間を過ごす。
成功の一方で、彼は言う。愛こそが彼にとって意味のあるものだと。「結局、人と関係を築かなければとても寂しいはず」。
アメリカで成功を収めた後、アルマーニはガレオッティと過ごすホリデー・ハウスを手に入れ、母にも家を贈った。父は既に亡くなっていた。「私は母に、彼女が今まで想像できなかったような生活をプレゼントしたんだ。家政婦と運転手と犬付きで。でも彼女は言った。“ジョルジオ、ありがとう。でも少し遅かったわね”と」。
85年にガレオッティがエイズで亡くなった時、アルマーニは悲しみのあまり粉々になったという。悲しみから逃れるようにより一層仕事に打ち込むようになった彼は、初めてパートナーが受け持っていた経営面での重責を負うことになる。「物事を自分のやり方で進めることは、時に非常に難しいもの。でもセルジオは誰にも彼の代わりをさせなかった」。今の彼からは想像できないが、ガレオッティが亡くなった直後は仕事で戸惑うこともあったという。それだけガレオッティはアルマーニにとって公私ともにかけがえのない大きな存在だった。
アルマーニはまた、豪映画俳優ラッセル・クロウのウエディング衣装や彼がオーナーとして名を連ねるラグビー・チームのサウス・シドニー・ラビトスに装具を提供している。「オーストラリアの人たちのことがほんとに好きなんだ。彼らはとても強くて毅然としている」。オーストラリア出身の女優ニコール・キッドマンや親交が深いことでも知られるケイト・ブランシェットの名を挙げながらこう続ける。「彼らが強さと意志の力を持っているのは、ほかの世界から離れているように感じるからじゃないか ? 」。どこか、アルマーニ自身と共通するものを感じないだろうか。
未来こそが挑戦
しかし、すべてがうまくいっているわけではない。家具ブランドのアルマーニ・カーザは未だ目立った評価を受けていないし、ほかの多くのブランドでは“ブランドの顔”になっている鞄で、これぞアルマーニといった商品は生み出されていない。また、巨大企業となったがゆえに、一部では高飛車だといった声や、常に新しいものを求めるファッション業界からは、新しいことを決してしようとしないアルマーニへの批判も絶えない。
それでもなおイタリア各紙は彼を“マエストロ”と呼ぶ。それは、戦後イタリアが世界に示したかった統率の取れた勤勉な面を代表して見せたのがアルマーニだったからだ。そして、ケイトをはじめ、トム・クルーズとケイティ・ホームズ夫妻、レオナルド・ディカプリオやビヨンセなど、アルマーニを愛用するセレブが世界にあふれているのも、その変わらない伝統から創り出される誇り高いイメージがなせる業だろう。また、アルマーニは多くの人が欲する安心感を持っているとも表現される。年齢を重ねたセレブたちのリピーターも多い。いつの時代もアルマーニはアルマーニ。その哲学、高度に洗練されたイメージは、もはや世界共通の認識だろう。
これまで複合企業への吸収合併や投資銀行ら、彼のビジネスを買いたいとオフィスに列をなして訪れる申し出をはねのけてきた。4人の実業家と古参の銀行役員がビジネスを買いたいと彼の元を訪れた時だ。「彼はイタリアの銀行界で最も力のある人だった。ほかの人たちがしゃべっている間、ただそこに座り、ひと言も話さないんだ。そして、彼らを見やりこう言った。“君たち、アルマーニさんは我々を必要としていない。行こう”ってね」。数ある中でもアルマーニのお気に入りのエピソードである。
シャネルやクリスチャン・ディオールがそうだったように、アルマーニも外部のサポートを受け入れる日が来るのかもしれない。だが、「問題は時間。未来こそが挑戦なんだ」と語る彼には、富や名声からかけ離れた誰も到達し得ない世界が見えている。ジョルジオ・アルマーニから生み出される伝説は、これからも輝きを失うことはない。
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