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ロジャー・パルバース氏は、日本の英字紙「ジャパンタイムズ」のコラムで、現代の日本が直面するさまざまな問題をシャープな切り口で洞察する一方、作家、劇作家、演出家、あるいは大学教授などさまざまな顔を持つマルチタレントの文化人。特に日本映画とのかかわりは深く、これまでの日本映画の流れを見つめてきた同氏に、日本映画が世界に与えた影響について、語ってもらった。 「戦場のメリー・クリスマス」での役割 日本映画とのかかわりという点で、まず1981年にオーストラリア・フィルム協会が大島渚展を開催したというのが最初のきっかけです。その時、私は来豪した大島氏の通訳として、国内を一緒に周り、一気に親しくなりました。その時、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説「種と種をまく人」をベースにした脚本を渡されました。後に「戦場のメリークリスマス」として封切られた映画です。それを読みとても感動しました。翌年に彼から、アシスタント・ディレクターとして参加してくれないかという依頼があり、喜んで引き受けた次第です。 ロケはクック諸島とオークランドで敢行され、監督や外国人俳優の通訳として働いたのですが、それだけでなく、大小のさまざまな問題を解決しなければならない、とてもきつい仕事でした。今フィルムを見れば、いつも私が画面の外側で、画面の中に入らないように這いつくばっていた姿を思い出し、感慨深いものがあります。とても厳しい仕事でしたが、素晴らしい経験を得ました。 日本映画の背景 戦前の一時期を除けば、日本映画は約100年にわたり、活発な製作を続けてきました。同時に偉大な監督も輩出しました。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、豊田四郎など。ただ国際的な影響という点では、非常に限られていました。その理由として、日本はエキゾチックな文化の国と見なされていたこと、特に映像とストーリーの構成と表現が、まったくハリウッド的ではなかったことが挙げられます。強いて言えば、戦前のドイツ映画やフランス映画に近いと言えるでしょう。それにそのころ、映画は黄金時代でしたから、経済的な理由から海外のマーケットを開拓する必要がなかったのです。 戦後、日本映画は再び生まれ変わったと言えます。戦前からの監督、小津や溝口が再び映画を作りだし、それに才能あふれる新人監督も台頭し始めます。中でも最も有名なのは、黒澤明です。彼はメジャー映画会社、松竹や東宝で映画を製作します。50年の初め、彼らの作品が、アメリカではなくヨーロッパで、評判を呼ぶようになります。アメリカでは日本映画は、現在でも少ない例外を除いて、アート・フィルムと見なされています。アメリカ人は字幕が好きではないので、それが、外国映画がなかなか受けない原因でもあるのです。しかし、ヨーロッパでは古典の雨月物語を下敷きにした「雨月」で、溝口健二はベニス映画祭のシルバー・ライオン賞を受賞。加えて、黒澤の「羅生門」は、ヨーロッパで封切られ、大きな反響を呼びました。ただ、小津の場合は、海外で評価が高まったのは1963年に亡くなった後で起きた現象です。 とにかく、西洋の観客にとってエキゾチックとしか映らない、ストーリー、創造されたキャラクター、日本のシーン、あるいは歴史的なテーマを持つ、まったくハリウッド的ではない映画が国際的な脚光を浴び始めるのです。たとえ現代物でも、過去現在ともに、日本映画がこれらの偏見を超えることは難しいというのが現実です。西洋の観客は、まだまだそういった偏見にとらわれていますし、日本は地理的に奇異な所と思っているのが本音ではないでしょうか。このことは「SAYURI(原題:Memoirs of a Geisha)」のような、“西洋の偏見”的な映画にも見て取れます。そういう状況の中、黒澤の作品は、特にヨーロッパの観客に感銘を与え、そしてヨーロッパやアメリカの若い監督たちに多大な影響を与えました。スティーブン・スピルバーグ監督もその1人です。 黒澤は映画構成に画家のようなアプローチをする、ビジュアル・アーティストでした。グラフィック・アーティストとしても一流の彼は、映画の1シーン、1シーンを実際に描き、全体の流れをつかむわけです。スクリーンでそれを見ると、素晴らしい真のアートに観客は感動します。それは俳優の立ち居振舞いや、人工的な構成といった類のものではありません。すべてのシーンがドラマチックに映像的に次のシーンにつながり、それが全体の映画として完成しています。ちょうどレンブラントあるいは一流のアーティストの巨大なアート・ギャラリーを見て回ったような偉大さがあり、見終わった後、統一された本物の芸術に圧倒されます。こういう才能を持った監督は少ないです。彼は、西洋では時代劇の作品に評価が高い訳ですが、現代物でも傑作が多い巨匠であるのは周知の通りです。 米国市場における日本映画 私の知る限りでは、アメリカで最初に成功した日本映画は、1954年の“ゴジラ”です。子供の時に見ましたが、英語に吹き替えられていたため、日本へ来るまで日本映画だとは気付きませんでした。アメリカ映画だと思っていました。黒澤の映画のようにアート系シネマで評判を呼んだ作品はありますが、それ以外では、アメリカで商業的に成功した日本映画はないように思います。 新しい世代の監督たち 60年代の初め、戦後派として新しい世代の監督たちが活躍を始めました。大島渚、篠田正浩、山田洋次、今村昌平などです。彼らが焦点を当てたのは、現代の日本が抱える問題と戦後の日本人の生活についてです。大島は疎外された青年や戦争をテーマに。篠田はギャング物を含むさまざまなストーリー。山田は「男はつらいよ」シリーズ。今村はブラック・コメディや戦争をテーマに。そして、現在の彼らを見てみると、大島は病で倒れ、今村は他界し、篠田は2003年の「スパイ・ゾルゲ」が監督として最後の作品だと公言、唯一、山田だけが活発な活動を続けています。10月に開かれた東京映画祭では、新作「武士の一分」を披露し、今は戦時中をテーマにした新作の準備にかかっています。 現在の新しい監督の活躍としては、北野武が傑出しています。ビートたけしとしても有名ですが、「戦場のメリークリスマス」に出演した後、監督業に転じ、かなり暴力的な作品もありますが、海外のフェスティバルで高い評価を得ています。周防正行は「シコふんじゃった」と「Shall We ダンス ? 」で世界中に知られるようになり、特に「Shall We ダンス ? 」はその年、アメリカで最高の収益を上げた外国映画でした。04年にはハリウッドで、リチャード・ギア主演でリメイクされています。 ハリウッドはいい意味で、盗用することにおいてはピカ一です。これまで何世紀にもわたって、ハリウッドは世界中からアイデアやストーリーを盗用してきました。リメイクする映画は何も日本映画だけではありません。アメリカは、他人のアイデアを再パッケージし、世界へセールスします。ピザがそうでしたし、現在はコーヒー ! 映画なら概してホラー映画をピックアップし、リメイクし、B級映画としてアメリカや日本の市場に回すわけです。そういった映画を一般観客が好むという下地があるのも事実ですが。例えば、「七人の侍」を下敷きにした「荒野の七人」にしても、日本的なものに突き動かされてリメイクした作品ではないと思います。 見過ごしてしまいがちですが、大きな例では、「ライオン・キング」があります。これは鉄腕アトムで有名な手塚治虫によるアニメ漫画「ジャングル大帝」を元にしたものですが、ディズニーからストーリーに関してアプローチされた際、ディズニーを崇拝する手塚サイドは、ただでストーリーを使うことを許諾したそうです。私に言わせれば、それは人道主義に反する犯罪だと思います。 ハリウッド式日本の取り入れ方 既に触れたように、最新作の「SAYURI」は、日本をエキゾチックな場所としてさらに煽り立てるものでしかない映画でした。明治以来、西洋人は奇異で“滅び行く”日本に憧れをかきたてられてきた訳ですが、もっとも日本にこの150年間少しずつ少しずつ“滅び行く‘ものがあったとすれば、現在何も残っているものがないという計算になりますよ。現代の東京を舞台にした「ロスト・イン・トランスレーション」でさえ、2人のセンシティブなアメリカ人の交流を描くドラマで、日本は奇異でステレオ・タイプの単なる背景でしかなかった。ハリウッドはいろいろな意味で長い道のりを経てきたと言えるでしょうが、日本に関して言うならまだどこにも到達していないのではないでしょうか。ハリウッドは今でも150年前の日本を発見しようとしています。だからこそ、日本映画祭はとても重要なイベントだと言えます。なぜなら、日本人による日本を表現する場だからです。 |
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