元プロ・ランナー
有森裕子さん インタビュー
「走ることは生きる手段だった」
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■有森裕子(ありもり ゆうこ)
1966年、岡山県生まれ。就実高校、日本体育大学を卒業後、(株)リクルートに入社。92年バルセロナ五輪、96年アトランタ五輪の女子マラソンで銀メダル、銅メダルを獲得。98年、NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」を設立。02年、アスリート・マネジメント会社「ライツ」の取締役に就任。07年2月、プロ・ランナーを引退。現在は国連人口基金親善大使や日本陸連女性委員会特別委員なども務める。 |
1992年バルセロナ、96年アトランタ五輪のメダリストとして日本女子陸上界を支えてきた有森裕子さんが7月1日、ゴールドコースト(GC)・マラソンに参加した。今年2月18日に東京マラソンを最後に現役を引退した有森さんは現在、NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」の代表とアスリート・マネジメント会社「ライツ」の取締役として活躍中だ。前者ではカンボジアなどへの支援活動、後者ではスポーツ選手のマネジメント活動を行っている。本紙はGCマラソンに参加した彼女を直撃。引退後、「今後は、走ることを通じて得たものを、生かしたい」と語った彼女の新しい道について、彼女のマラソン人生を回顧しつつ、彼女が発するメッセージを探る。
■カンボジアの被災者に向けた自立支援
――「ハート・オブ・ゴールド」の設立
第2次世界大戦後、カンボジアで起こったポルポト派による大虐殺(1975〜79年)は、およそ200万人の人命を奪った。その後遺症は、至る所に埋められた対人地雷となって、未だにカンボジアの人々を脅かし続けている。
96年12月、対人地雷で手足を失った人々に、義手や義足を贈ることを目的としたチャリティー・レース「アンコールワット国際ハーフ・マラソン」がカンボジアで開催された。同年夏に行われたアトランタ五輪で銅メダリストに輝いた有森裕子さんは、同大会の招待選手として迎えられた。
現地を訪れた有森さんは、カンボジアの経済的貧困の様子に唖然としたという。ホテルにあるのはベッドだけ、蛇口を捻れば茶色い水が出てきた。だが、そんな経済状態の中で、必死に生きている人々の姿が、彼女にある思いを想起させた。
「何もないと思うより、何か足りないものがあるなら、それを持っている人が協力して助ければいい」
これが現在、有森さんが代表を務める「ハート・オブ・ゴールド」設立のきっかけだ。それから約10年が経ち、NPO活動について彼女はこう語った。
「物質的な支援よりも自立を促すことが大切だと私たちは考えています。彼らに『生きる目標』を持ってもらいたいんです。私たちの活動は、「アンコールワット国際ハーフ・マラソン」のような、人々がスポーツと出会える機会を提供していくこと。それを彼らの自立に役立ててほしいと思っています。スポーツは人の生きる目標となり得ると思うから」
かつては不器用だった自分が、目標や希望を持つことができたのは、“走ること”に出会えたからだ、と自身の経験を交えて語る有森さんは今、自ら(チャリティー・レースなどで)走ることを通して、それを人々に伝えようとしている。しかし、そういう形の支援は、結果を見るまでにかなりの時間を要するとも思える。だが、有森さんはこう言う。
「人間ってそんなに簡単に分かり合えないし、楽なことじゃない。でも、人と人とが密にコミュニケーションを取ることって素敵なことだと思うんです。だから、この活動を通じて少しでも多くの人と触れ合い、被災などで苦しむ人々や、子どもたちを元気にしていきたいんです」
■意思のあるアスリートを増やしたい
――株式会社「ライツ」の設立
ボランティア活動に力を注ぐ傍ら、彼女がもう1つ手掛けているのが、2002年に設立したアスリート・マネジメント会社「ライツ」。同社の方針について尋ねてみた。
「ライツは、単に『スポンサーを取ってくれ』とか『オリンピックに出させてくれ』という考えのスポーツ選手ではなく、“意思を持った”アスリートをサポートする会社です」
「意思を持ったアスリート」とはどういうことか。その真意は彼女のマラソン人生に起因していた。
有森さんが陸上に目覚めたのは、中学校の体育祭で1位を取ったことがきっかけだった。地元・岡山県で陸上の名門と言われる就実高校に進学を決めるも「素人は要らない」と陸上部の入部を断られた。1カ月半の猛アタックの末、入部に漕ぎ着けた時の彼女の思いはこういうものだった。
「結果の良し悪しよりも、必死に打ち込めることがあり、誰よりもがんばって練習をしたんだと思える時間が持てることが何より大事だった」。
しかし、高校3年間は補欠のまま。「3年続けて形にならなかったものを続けても仕方ない」という思いが過ぎった。そんな彼女を踏み留まらせたのは、当時の恩師の存在だった。
「彼は3年間、私が大会に出られなかったことを、申し訳なく思ってくれていたんです。自分をきちんと見ていてくれた人がいたと知って、とても嬉しかった。それなのに、何も形にしないままやめてしまっていいのだろうか
? と思いました」
これが、結果を強く意識するものへと彼女を変化させた瞬間だった。
そうと決めたら一直線。就実高校を卒業後、日本体育大学の陸上部を経て、リクルート社に入社。そして、無名ながら、ひたすら走り続けた彼女の努力が結実する。91年の大阪国際女子マラソンで日本最高記録を樹立したのだ。一躍、日本のトップ・ランナーとなった彼女は、92年バルセロナ五輪の日本代表選手に選ばれ、銀メダリストに輝いた。
名実ともにトップ・アスリートとなった彼女は次第に、画家が絵を描くことで生計を立てるように、音楽家が楽器を奏でることで生活をするように、「ランナーとして、走ることで生きていきたい」と思うようになった。だが、彼女の前に立ちはだかったのは、当時のアマチュア・スポーツ界に見られた肖像権管理などにおける厳しい制限だった。
「当時、スポーツは純粋でなければいけないという風潮があり、スポーツを生活の手段にすることは非難される傾向にあった。でも私はただ、“走ること”を生かして生きていきたいと純粋に思ったんです」。
そこで、彼女はアマチュアという枠から抜けてプロの陸上選手になることを決意した。当時、存在していなかったプロの陸上選手。それを実現するためには、4年後のアトランタ五輪でメダルを獲得し、結果を出すことだと確信すると、再び全力で走り出した。そして見事、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得。彼女は堂々と「プロ宣言」を果たし、陸上競技界初、アマチュア・ランナーの「プロ化」を実現させた。
このように彼女のマラソン人生を振り返ってみると、「意思を持つアスリート」の意味がおのずと見えてくる。自分の生きる道について考え抜き、目標に向かって行動してきた彼女は、自分のように強い意思を持つアスリートが後に続いてくれることを心から願っている。それが「ライツ」のすべてなのだろう。
「ライツをきっかけに、アスリートたちに羽ばたいていってほしいんです」
NPOの活動とライツの運営を振り返る中で、終始一貫したある信念に気付かされた。
走ることは生きること――。
プロのランナーとしては引退した有森裕子さん。だが、彼女はどの世界に行っても「走り」続け、生きることを伝え続けていくのだろう。そして、そのピッチが緩まることはない。