BOYS BE AMBITIOUS !
- BOYS BE AMBITIOUS ! 第1回 [2008/7/01]

新連載
食、自然、そして人…。本音で語ろう
KEN SADAMATSU
今の自分に10の可能性があるのなら、眼前に果てしなく続く、水平線のかなたに広がる未知の大地には、10倍、100倍もの自分を試すチャンスが待っているに違いない。世界という大舞台の上で自分の能力の極限にチャレンジし、いつの日か成功してみせると考えていた。
(写真)ハイアット・ホテルでの修行時代
第一部
不運、挫折、失意そして奮起の青春時代
何の不自由もなく過ごした愛媛県松山市での高校時代――。ただ進学クラスからは落ちこぼれ、政治・歴史書などの読書のみを趣味としていた。しかし、学歴偏重、猫も杓子も大学へという風潮に精神的に付いて行けず、父の経営する鉄骨建築会社に就職する。従業員8人ほどの職場で、気楽な気持ちで始めた仕事が、父の急死という思いがけない事態に直面し、年若くして、何の経験もないままに、周囲の事情から後を継ぐことを自分で決心した。
しかし、大黒柱の父を失い、求心力をなくした会社の業績は低下し、ついに閉鎖せざるを得なくなった。だが、たびたび何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、ある日突然、私はいなくなってしまった。その人たちの家族の顔を思い浮かべると、このことが私の中で一生のトラウマとなった。
その後、仕事を転々としながらも自分の生き方に納得できない失意の日々。それに加えて、政治、経済、社会などあらゆる分野で強者が弱者を支配する風潮に対する憤り。「自分が生まれ育った日本という国は、そして自分という人間はこんなはずではない。よし、奮起一番、日本を飛び出そう。荒波に乗り出すんだ」。22歳。決意も新たなる旅立ちであった。

(写真)日本のカレーを徹底的に研究していたころ
ワーホリから永住ビザへ
あの当時、シンガポール航空の片道切符が12万円はしたと思う。日本人の豪州観光ブームに火がつく前だった。当時、免税店が採用していた日本人は永住者が中心で、お土産屋さんも少なく、ワーホリが仕事に就けるのは日本食レストランぐらい。それも競争率が激しく、仕事さえあれば給料はいくらでもよかった。
そのうちにノース・シドニーにあった『SUSHI HOUSE』さんでアルバイトすることが決まり、生まれて初めてウエイターをしたが、オージー客が言う「Bill(請求書)とBeer(ビール)」の発音の違いを聞き分けることができず、いつもウエイトレスのひろ子さんにご迷惑をかけていた。しかし、現地の人間の中で仕事しようと考え、フィッシュ&チップス店で働いたが、毎日の単調な仕事に嫌気がさし、それも辞めてしまう。
その後、約2週間にわたり、ノース・シドニーからキングス・クロスまで約200店を飛び込みで回り、仕事を探した。その中、採用していただいたのがブルー・トラウト・レストランのとく子さんだった。そこで初めてキッチン・ハンドから包丁を使い、料理を作ることを学び、昼間はノースのお弁当屋さんを任されて家賃と人件費を払いながら6カ月間、働いていた。
ブルー・トラウトでの思い出…。22歳まで豚肉を食べられなかった私が、ある日スタッフ・ミール(まかない)でトンカツを作り、口に入れてみるとなんとおいしいことか ! 今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚いた。
しかし、働きづめの毎日で、オージーの友人もできず、英語も上達せず、旅行するためのお金も貯まらず、日本への帰国となった。東京の親戚を頼ったが、就職のチャンスもなく、再度、愛媛のみかん山に囲まれた山奥に帰ることとなる。
1カ月後、豪州のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出し、カレー・ライスの店をオーストラリアで出店することを考え、永住権取得にかかる。ブルー・トラウトのとく子さんたちの尽力をいただき、再度来豪したのが23歳。その後幸運にもハイアット・ホテルでセカンド・コックをされていた小川さんと出会い、約2年間にわたるシェフ修行がスタートした。
ハイアット・ホテルでのできごと
「How do you do ?」と最初の日にスタッフに言い、その次の日もまたその次の日も「How do you do ?」と言うと、日本語を話せる韓国人のシェフが「それを言うなら『How are you ?』だろう」と間違いを指摘してくれた。みんな「@&c% you, stupid !」とか、スラング連発で何を言っているのか全然分からない。
それに、食材・スパイスはコショウくらいしか知らない。ハーブはパセリしか知らない。パスタはスパゲティしか知らない。何百種類の食材を扱うホテルの中で最初の半年間は英語力と調理技術のなさから胃が痛くなる日がずっと続いていた。
また、日本人とオーストラリア人の味覚の違いにも驚いた。オージーのシェフはフレッシュ・トマトとバジルを使ったスパゲティでもあまり塩・コショウを使わない。食べてみると日本人の私には味がぼやけていてモノ足りない…。「これが美味しいのだろうか… ?」。塩・コショウが強すぎれば、トマトの新鮮な味覚とバジルのデリケートな風味が損なわれ、食材の持ち味が生かされない。また、白ワインとの料理の相性も微妙だ。白ワインの持ち味を引き立て、また料理の持ち味も引き立てる。どちらが勝ちすぎてもいけない。
ホテルなので仕事は24時間体制。ルーム・サービスもあれば、早朝からブレックファストの準備もある。また、レストランでのアラカルト料理の仕込みは、世界中の代表的な料理を学ぶことができた。トップシェフがヨーロッパなどからやって来て、メニュー変更のためにホテルの中に入り、一緒に働くことができたのも良い経験だった。そして、驚いたのが、若くても素晴らしい優秀なシェフがいたことだ。自分自身の主張を曲げず、言うことは言う。本当に休みの時間、休みの日も料理を勉強しているスタッフがいた。私は2年間、1日も休まず、シェフが体調をこわして急に休んでもいつでも交代で仕事に入った。たいへん便利なスタッフだったと思う。でも、それは英語が話せず、友人が少なかったことの裏返しでもある。
ある朝、ホテルのキッチンで、みんながラジオを熱心に聴いていた。
ラジオ番組で、覆面調査員がシドニーのホテルの朝食を試食し、それを評価するという企画だった。なんと、私が作ったエッグ・ベネディクトの朝食が一番になった ! みんなが祝福してくれた。韓国人、中国人、フィリピン人、オーストラリア人、マルチカルチャルな顔ぶれ。そして、男まさりの女性シェフ、ユニークなゲイの男性接客係…。ホテルのスタッフたちはみんな私を大事にしてくれ、オーストラリアが好きになる一因となった。

(写真)友達を呼んでカレーの試食会を開き、感想を聞いた
カレー・レストランのオープン
しかし、自分の英語力の限界とマネジメントに対するストレスなどから、2年間で辞めることになった。ハイアット・ホテルで働きながら2年間、日本のカレーを徹底的に研究した。小麦粉、ストックの取り方、スパイスの調合の仕方…。日本の有名ホテルのカレーもすべて缶詰で試食した。資料は膨大な量となり、イエロー・ページを頼りにスパイス会社にたびたび足を運んで研究を続けた。
私が以前日本でアルバイトをしていた松山市にあるステーキ・ハンバーグ・レストランの樋口さんから連絡があったのは、ハイアットで働いて2年近く経ったころのことだった。
お客さんでオーストラリアの物件をQLD州で購入したい人がいるとのこと。「それを調査するように」という依頼だった。
私は、樋口さんと越智さんがオーストラリアにいらっしゃった時、カレー・ショップ開業のプロジェクトを話し、出資をお願いした。「絶対に成功させてみせる」。万人に好まれる日本のカレーの味とは ? コスト計算…。自分のアパートで試食をしてもらい、資料をもとに事業計画を説明した…。
25歳の私…。何の保証人もいない。母親にも心配かけるので相談しない。その私に樋口さんが自ら保証人になってくれて、1,000万円の大金を貸し付けてくれた。
「私は命をかけて必ず店を成功させてみせます」と何度も言いきった。
その時、樋口さんの年齢は35歳。私は現在、42歳。今の私があるのは人生の師、レストラン・ビジネスの師、樋口さんのおかげである。
さて、次号ではカレー・レストランをオープンしてからの挑戦、苦悩、挫折の5年間を、国によるカレー・ライスという食文化の違いを紹介しながら話を進めていく。今月はこれまで。Have you enjoyed?
筆者プロフィル
本名:定松勝義。鱒屋レストラン・グループ社長。1961年12月5日生まれ。愛媛県北条市出身。84年、ワーキング・ホリデーで来豪。85年、オーストラリア移住。現在、シドニー市内で「武蔵」「誠」「鱒屋」のレストラン3店舗を経営。「今月号より1年間にわたり、連載をさせていただくにあたり、食の仕事を通じての20年間の思い出、自然、人とのかかわりを3部構成にして語っていきたいと思います」と語る。
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