MASUYAグループ 就職最前線
- BOYS BE AMBITIOUS ! 第5回 [2008/11/01]

連載No.5
食、自然、そして人…。本音で語ろう
KEN SADAMATSU
前回までの4回の連載においては、食に関する記事構成としたが、今回より第二部として、「私と自然」というテーマで語ってゆく。人間は自然の中から生まれてきた…。
(写真)ブルーム中心部にある、真珠養殖で成功した3人の像。定松氏が店のスタッフ宛てに送ったハガキより
第二部その1
■1999年1月、豪州1周旅行への出発
その時、私は37歳だった。前年8月ごろ、持病であった椎間板ヘルニアの治療のため鍼を打っていて、体が右側に曲がってしまった。まともに歩くことができず、仕事にも集中できなくなってしまった。また、経営者としての自分に限界を感じ始め、このままでは40歳になってから成長していけないのではないかと、不安になっていった。
自分自身を見つめ、変えるために旅に出た。特に、西オーストラリア(WA)州の北、ブルームの砂浜で2週間、1人で過ごして、人生を考えてみたかった。そして、酒も飲めなくなった身体を元に戻し、エアーズ・ロックに登れる体力を取り戻したかった。期間は2カ月間。シドニーからグレイハウンドのバスで南下し、アデレードからインディアン・パシフィックでパース、そしてバスでブルームへ。その後は、飛行機でダーウィン、エアーズ・ロック、ケアンズ、そこからバスでシドニーへ戻るという旅程であった。
実は、私は小さいころから人見知りする人間で、出不精な子供だった。みんなで遊ぶのもなんとなく苦手…。バックパッカーのドミトリー(共同部屋)に泊まるのも、最初は嫌であった。若い世代から見れば、私は中年だった…。この時期の数年前より、日本人の若者は頭髪を染め始めていた。私の学生時代は、髪を少しでも染めていれば、それは不良だった。しかし、旅に出て、金髪の若い日本人と話してみても、悪い人間には出会わなかった。彼らは自分自身を主張したい、自分を変えたい、また、ファッションとして金髪にしているということに気付いた。人を見る場合、髪型、色よりも、目を見るべきだろう。目は口ほどにものを言う…。
旅の途中、真夜中4時間ごとに停まるバスの休憩所で、1ドル50セントの温かいお茶代を節約し、寒い中、じっと1人で何かを見つめながらバスの出発を待つ日本人女性を多く見かけた。私は話しかけなかった。外国に来てまで日本人と知り合いになることは、薦められることではないから…。その中で、私は自分自身がいつの間にかぜいたくになっていることに気付いた。私にとってはたったの1ドル50セント。彼女たちにとっては、大事な大事な1ドル50セント。
私が旅をしている間、鱒屋レストランは、中谷店長(当時)が寝食を忘れてがんばってくれた。そして前年度以上の売上を達成してくれた。私は店のスタッフに約20通の絵はがきと視察レポート、また、家族にも心からの手紙を送った。
旅の思い出:その1
アデレードで、「MR MORE'S」というバックパッカーに泊まった時のこと。その階下のパブで9ドル80セントのアイリッシュ・スープを食べた。ボールになみなみのスープ、よく煮込んだ牛肉、ニンジン、セロリ、ジャガイモ。味付けは塩、コショウだけ。玉ネギは入っていなかった。このシンプルなスープに私は感動した。以前、ある大学教授から聞いた悲しいアイリッシュの歴史。パブの中でアジア人は私1人。生バンドを聴きながら、心の中に染み入るスープとなった。旅の途中で出会う食べ物、料理、ワイン…。心がやさしく開いていれば、思わぬ感動の出会いがある。
旅の思い出:その2
パースの街の美しさ、漁港フリーマントル、マーガレット・リバーとスワン・リバー。オーストラリア東部とは全く違う魅力があった。将来住むならシドニーよりパースの方がいいかなと思ったりした。
パースの北420キロにあるジェラルトンは、ロブスターの一大産地として知られていて、私は各社を回り、航空便で鮪とともに自分の店へ送った。そこからさらに北へ160キロほどのカルバリ国立公園では、夜、月より輝く星がきらめいていた。あるバックパッカーに泊まると、何年も前からワーキング・ホリデー・メーカーや学生たちが残したノートがあり、私の店で働いてくれていた、愛称「先生」の記録と写真があった。懐かしかった…。
そこのバックパッカーでは、通称「仮り死にツアー」と呼ばれるカルバリ国立公園の数日旅行が、経営者によって主催されていた。自然の中で、川を渡り、崖を登り、火をおこし、トイレは原野。VBを飲みながら星を見て寝る。ちょっと間違えれば、即あの世行きというツアーが、何年も前から行われていた。私は行かなかった。本音を言うと度胸と体力がなかった。その後、北上し、イルカと遊ぶモンキー・マイヤー、白い貝殻のビーチが100キロも続いているシェル・ビーチ、世界最古の生物のいるハメリン・プールへと移動した。
旅の思い出:その3
ブルームは、豪州1周旅行の最大の目的地だった。インド洋を見ながら、WA州有数の美しいビーチといわれるケーブル・ビーチで人生を考えることだった。
ブルームは、80年前より日本からの移住者による真珠養殖が盛んであった。しかし、今はひっそりと静まり返っている。私は街の中にある日本人墓地を2日間にわたって訪れた。919人のお墓があった。潜水病、台風、戦争で亡くなった日本人1人ひとりの名前を読んでいくと涙が止まらなかった。名前と年齢だけが書かれたお墓。10歳に満たない子供。その子供を亡くした親の気持ち。ほとんどの人が30〜40歳代だった。つまりそれは、私と同じ年代…。それに比べ私は自由で、やろうと思えば何でもできる人生の中にいる。毎日が生きるか死ぬかではない。私は幸せなんだなと、つくづく思った。ブルームでの滞在は1週間となり、計画通りにはいかなく、心が定まらなかった。
ブルームの中心地に3人の銅像が建っていた。言葉、人種、文化の違いの中、アボリジニ人、中国人たちとの生活、潜水病、台風での何度にもわたる絶望の繰り返し。真珠養殖を事業化した日本人のリーダーが、真ん中で不屈の信念で指を指している。彼は40歳で亡くなっていた。私も心の中に経営者として信念というものを持つことができるのか ? 甘えた自分はまだまだ続いていた。分からない…。
旅の思い出:その4
オーストラリアの魅力の1つ、それは偉大な自然だろう。特にノーザン・テリトリーのダーウィン、カカドゥ国立公園。私は丸1日かけて、バラマンディーを釣りに出かけた。回りをワニがゆったりと泳いでいた。ツアーでは、滝壺の中で泳いだり、アボリジニ人の生活習慣の話を聞いたり、絵を見学したりした。横を向けば岩淵で、50センチ以上のトカゲのような動物が私の泳ぎをじっと見ていた。エアーズ・ロックは、普通の人よりも3倍の時間をかけて頂上まで登った。その後、ケアンズから2週間かけて、ロックハンプトン、バイロン・ベイ、コフス・ハーバーへと移動した。いろいろな出会いがあり、思い出を作ることができた。
そのころ店では、店長の中谷さんが過労のため倒れることもあったが、みんなが協力して運営してくれていた。私の感動はスタッフがくれたものだと感謝した。
■再度の旅への出発、2008年1月、そして2013年
私はスタッフに人生の壁にぶつかった時、決心がつかない時は、旅に出て考えるようにと言う。自然の中で答えが見つかる。それは、川の流れの中か、星空か、小鳥の声か…。今日本では、年間3万人の人が自殺しているという。なぜ… ? 自然は人間を生かしてくれる。食べ物があれば人間は生きてゆける。作物を作ろう、絵を描こう、本を読もう、勉強してみよう、花を育てよう。失敗は怖くない。人間、運がいい時もあれば、悪い時もある。そして、いい時は何度でも訪れる。
旅をすることによって、自然のすばらしさを感じる。私はスタッフにオーストラリアをラウンド(1周旅行)してもらいたい。そうすればこの国が好きになる。この国で暮らすことが…。2008年1月、私は46歳になっている。そして私は妻を連れて、第2回目のバックパッカーに泊まりながらのラウンドへと出発するつもりだ。前は行けなかったパース南東700キロのエスペランス(Esperance=フランス語で「希望」の意味)のビーチを2人で歩いてみたい。過去に家族で訪れたマーガレット・リバーのあの日の夕焼けを見てみたい。2人の20年間の人生を振り返りたい。
2013年、2人の娘が20歳と17歳になる。私と3人でラウンドに出る。私と妻との25年の人生、私のこと、私の父母、彼女たちの将来について、3カ月かけて語ってゆきたい。
■自然の中で食材を求めて
私は日ごろより、食材を求めて各地を訪れる。そして各地で人と話をする。私のオーストラリアでの食のビジネスは、本当に楽しいものだと感じている。次号では、ワイナリー、有機栽培のA.T.ファーム(農場)、鮪の漁港NSW州南部アラダラの話をしながら、鱒屋の社長である定松の仕入れの仕方なども紹介してゆく。本日はこれまで。Have you enjoyed ?

筆者プロフィル
本名:定松勝義。鱒屋レストラン・グループ社長。1961年12月5日生まれ。愛媛県北条市出身。84年、ワーキング・ホリデーで来豪。85年、オーストラリア移住。現在、シドニー市内で「武蔵」「誠」「鱒屋」のレストラン3店舗を経営。「1年間にわたり、連載をさせていただくにあたり、食の仕事を通じての20年間の思い出、自然、人とのかかわりを3部構成にして語っていきたいと思います」
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