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日豪プレス創刊30周年記念インタビュー

オーストラリアを舞台に活躍する5人に聞く
この国が与えてくれたものとは?

 日豪プレスでおなじみのオーストラリアで活躍する5人に、これまでのオーストラリア生活を振り返っていただきました。


「周りの方たちの温かい支えがあって、ここまで来れました」(Photo: Stephen Oxenbury)
「周りの方たちの温かい支えがあって、ここまで来れました」(Photo: Stephen Oxenbury)
Profile

■後藤和子(ごとうあいこ)

11月14日生まれ。桐朋学園大学バイオリン演奏科卒。その後渡米し、ニューヨークの名門・ジュリアード音楽院を卒業。98年8月来豪。オーストラリア室内合奏団(Australian Chamber Orchestra)で唯一の日本人バイオリニストとして、またソリストとしても活躍中。ACOソロ・リサイタル(01年、04年、05年、06年)、豪日協会主催の交換留学生のためのチャリティー・コンサート(キャンベラ)など。10月27日にはシドニー・コンセルバトワール内、ミュージック・ワークショップでリサイタルを開催(7PM開演)。

ACOのメンバーと。都市から都市へともに飛び回る仲間とは深い絆で結ばれている(Photo: Stephen Oxenbury
ACOのメンバーと。都市から都市へともに飛び回る仲間とは深い絆で結ばれている(Photo: Stephen Oxenbury)

「周りの方たちからの
温かい支えと素晴しい自然」

後藤和子さん オーストラリア室内合奏団バイオリニスト

 オーストラリアに来る前は、ニューヨークに7年住んでいました。始めの3年は留学生として、卒業の翌年からはバイオリンを教える傍ら、演奏活動をしていました。
  日本に引き上げる決心をしていた7年目に、たまたま新聞で「Australian Chamber Orchestra(以下ACO) Violinist 募集」の記事を見て、アンサンブルが好きでいずれは室内オーケストラに入りたいと思っていたので、オーストラリアやACOについて何の知識もないまま、テープと履歴書を送ってみました。日本に帰るつもりで荷物も片付けていたので、オーディションを受けよう ! というより、人前で演奏するニューヨークでの最後の場だ、と思い、受けることにしたのです。
  そしてオーディション前夜、ACOのカーネギー・ホールでのコンサートを聴きに行ったら…何と素晴しい、音色とチームワークが交わった新鮮な演奏 ! 自然と涙を流していました。翌朝のオーディションの時には、ただただ、ACOの人たちに会って、コンサートのお礼の代わりに自分の演奏を聴いてほしい ! という思いでした。その時のこと、ACOの皆の顔も未だ鮮明に覚えています。
  2週間後に合格通知を受け取ったのですが、親や友達、先輩、先生たちには、日本でまたどうぞよろしくお願い致します ! と挨拶をしていた後に、帰国の3カ月後にはオーストラリアに飛ばなければならず、少し複雑な気持ちでした。
  それから、早いもので9年…。どの街も大好きですが、やはり一番はシドニー、特に今住んでいる所が気に入っています。
  これまで本当にたくさんの方々が、励ましてくださり、助けてくださり、1人ではここまで無事に生活できなかったことと思います。来豪当初は、初めて会う人たちばかりで、また、オージー・イングリッシュがまったく分からず、メンバーとのコミュニケーションも大変でした。が、“音楽は世界共通語”を、この時こそ強く実感したことはありません。言葉が分からず、通じなくても、弾いている時は彼らと会話ができる…。そうしている内に、私生活でも皆、私のことを気に掛けてくれて、今では家族のような感じです。オーストラリアが自分に与えてくれたものは、周りの方たちからの温かい支えと、そして素晴しい自然です。 
  夢は…小さな音楽祭を開くこと。ほぼ毎年参加しているサイトウキネン・フェスティバル(小澤征爾総監督)で欧米、日本で活躍している先輩や友人たちと共演でき、いつも刺激を受けます。音楽を心から愛し頑張っている豪・日・欧米の仲間たちと、私の一番好きな場所、オーストラリアで演奏会を開き、美味しいワインと空気と食事を楽しみ、多くの方に演奏を聴いて一緒に楽しんでいただけたら最高です !

 

 


長らく暮らすノース・ブリッジで
長らく暮らすノース・ブリッジで
Profile

■森本順子(もりもとじゅんこ)

1932年3月31日生まれ、広島市出身。45年8月6日13歳の時、広島市で被爆。55年、京都市立美術大学西洋画科卒。同年〜59年、大阪市立城東第五中学、美術科教諭。65〜71年、児童画教室主宰。国際児童画交換展覧会を毎年開催。71〜82年、大阪府交野市立第三中学、美術科教諭。80〜82年、同市教育委員会、市史編纂委員。郷土史かるたおよび交野市史民俗編の全原画作成。82年50歳でオーストラリアへ移住。著者自らの被爆体験を描いた英語版絵本「My Hiroshima」は母校の教科書になっている。ほか、日本民話の英語版絵本「鶴の恩返し(The White Crane)」「一寸法師(The Inch Boy)」「わらしべ長者(A peace of straw)」「なめとこ山の熊(Kojurou and The Bears)」や「仁王とどっこい(The Tow Bullies)」など著書多数。84年から4年連続でオーストラリア児童図書評議会賞を全国3位、2位、2位、1位受賞。97年と98年にNSW州児童文学賞およびオーストラリア児童図書評議会賞1位を受賞。USA、UK、NZ、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、韓国などでも出版されている。

「この国の懐の深さに
生かされました」

森本順子さん 絵本作家

長らく暮らすノース・ブリッジで 広島の原爆記念館をスケッチする女学生時代

 1人息子と一緒にオーストラリアに移住したのは私が50歳の時でした。
  美大を卒業して以来、画家を本業として活動することへの夢を我慢しながら続けてきた美術教諭の仕事から足を洗い、心機一転、再出発したかったのです。
  結婚に失敗していたことや、学校の現場に幻滅していたことなど、理由はほかにもありますが、戦争花嫁として既にオーストラリアに暮らしていた姉(ブレア照子)夫婦の招きがあったこと、そして息子の強い希望が、決断の大きな要因となりました。
  特に息子の功(いさお)は、その4年前の高2の夏休みにシドニーを訪れて以来、オーストラリアへの移住を熱望し、シドニーで通う学校や住まいなど、何から何まですべて自分で調べ、申し込んで。結局、彼はシドニーの美術学校と映画学校で映像を学び助監督として映画の世界に入り、2000年に『いちげんさん』で監督デビューすることができました。きっとあのまま日本にいても、息子を大学に行かせてやれる余裕はなかった。その点、オーストラリアの学校は当時、ほとんどお金がかかりませんでしたから、そう考えると、息子にとっても来豪したことは悪いことではなかったように思います。
  一方の私は、英語がろくに話せず、なかなかこちらの生活に溶け込めない。体調まで崩し部屋に1人ふさぎ込むような生活でした。画家として再出発するはずが、やる気が何も起きない。そんな時に、少しでも気が晴れるのではと、姉が提案してくれたのが日本の民話を絵本にすることでした。私のアイデア・スケッチを持ち、紹介者もなしに息子は1人で、大手の出版社コリンズを訪ねたのです。幸いにもの編集長アン・イングラム女史が、私の作品を気に入ってくださり、日本民話の英語版絵本の出版が実現したのです。83年のことです。最初に出版した「鶴の恩返し」は翌年、オーストラリア児童図書評議会賞を受賞。それから絵本制作は私の生き甲斐になったのです。展示会が終われば役目が終わってしまう絵画作品と違い、絵本は残り、子どもたちにずっと読み続けてもらえる。こんな嬉しいことはありません。この絵本制作と、イングラム編集長との出会いがなければ、今の私はなかったでしょう。

広島の原爆記念館をスケッチする女学生時代
広島の原爆記念館をスケッチする女学生時代

  オーストラリアが私に与えてくれたものは何かを考えた時、それはこの国の懐の深さや広さからくる愛にほかなりません。先入観や偏見なしに、率直にこちらの出版界に私を受け入れてくれ、また読者は絵本を受け入れてくれ、これまでに絵本で6度も受賞を果たすことができたのです。
特に広島での被爆体験をオーストラリアで絵本にしたいと相談した時には、イングラム編集長は熱心に社内の反対派にこの絵本の必要性を説いてくれたのです。60数年前に戦火を交え、多くのオーストラリア人犠牲者を出した敵国の話を、このような形で出版するのは本当に難しかったはずです。感謝してもしきれません。
頭と体次第ですが、絵本の制作はもちろんのこと、被爆者生き残りの義務として、これまでのように被爆体験を語り伝えることで、次の世代に平和の大切さを訴えていきたい。それがオーストラリアへのせめてもの恩返しと考えています。

 


自宅バルコニーで奥さんのクリスティーンさんと
自宅バルコニーで奥さんのクリスティーンさんと
Profile

■小路光男(しょうじみつお)

1946年7月8日大阪生まれ。1973年京都市立芸術大学陶磁器科修士課程卒、同年2月、26歳で来豪。大学卒業翌日に来豪し、メルボルンのモナッシュ大学に教職を得、2年間教える。メルボルンのモナッシュ大学に2年、シドニーの国立芸術学校に半年勤務。サンノゼ州立大学で講師を務めた後、米国・欧州諸国を巡り、78年よりシドニー美術大学(現シドニー大学芸術学部)の発足とともに招へいされ、現在に至る。同大シニア・レクチャラーとしては今年7月22日にリタイア。現在は名誉シニア・レクチャラーとして学生を指導しながら、創作活動を続ける。

「妻、息子たち、多くの友人たち
僕の宝すべてを与えられた」

小路光男さん
陶芸家/シドニー大学芸術学部陶磁器理論担当名誉シニア・レクチャラー

 大学卒業後は日本ではなく、海外で自分の力を試してみたかった。本当は米国に教えに行きたかったのですが、オーストラリア大使館の方々のご親切な対応に心を打たれ、渡豪を決めたという経緯があります。
  陶芸は当時、日本の美術界では変人扱いされていた領域でした。しかし、この国ではミス・オーストラリアも陶芸が趣味と新聞に載っており、びっくりしたのを覚えています。今の日本の陶芸ブームがこの国では既に30年前にあったわけです。そういう意味でこの国を選んだことは正解でした。
  ただ、芸術家がプロとして生きていくには難しい面もあり、私は教職で生計を立てながら主に海外に目を向けて活動を続けました。イタリアの国際陶芸展で買上賞、ニュージーランドの国際陶芸展でグランプリを受賞して以来、海外から招へいされることが多くなり、現在でも年に1回はアジアとヨーロッパに行くことにしています。
  この国に私が与えてもらったものの第一番は、やはり我妻クリスティーンです。彼女もイギリスから来た外国人。移民の国だからこそ出会えたのではと感謝しています。2番目は愛すべき2人の愚息たちですね。そして、こちらで出会ったオーストラリア人や日本人の友人たち。これらはオーストラリアが私に与えてくれた一番の宝物です。
  もちろん、私が陶芸家としてやっていく上で、美術や芸術を受け入れるオーストラリアの包容力には感謝しています。イタリアの公募展にもオーストラリアのカウンシルが私の作品を送っていただいたこともありました。
  また、オーストラリアには素晴らしい自然があります。そして人も少ない。これが今、世界で一番贅沢なことではないでしょうか。
  夢について。オーストラリアでは現在、多くの大学が陶芸を教え、才能ある若い作家を多数輩出しています。しかし、主要な美術館では陶芸展があまり行われていないというのが現実です。国際的に交流を広げることで、国内での陶芸に対する意識がさらに変わってくれることに期待したいですね。
  私個人については、この7月22日をもってシドニー美術大学/シドニー大学での30年間弱の教職をリタイアしました。時々、大学院の学生たちのスーパーバイズ役として大学に行う傍ら、今後は創作活動に専念し良い作品を創っていきたいですね。


道場の前で妻の記史(ふさし)さんと。2005年撮影
道場の前で妻の記史(ふさし)さんと。2005年撮影
Profile

■松本主計(まつもとかずえ)

昭和17年2月1日生まれ。東京水産大学増殖学科卒。1966年、パースに本社を置く南洋真珠養殖会社に技術者として就職、同年6月木曜島に赴任。75年に退社し翌年ケアンズに空手道場「Matsumoto Karate Academy」を開く。オーストラリア空手連盟ノース・クイーンズランド代表。現在、本紙全国版に「ケアンズ風物記・南緯17度の太陽」を連載中

「豪州に住んでいたお陰で
私は日本人になり得た」

松本主計さん 松本空手道場主宰

 自分の性格から考えて、将来、公務員や教職など枠に収まる職業は適さないのではと思っていた。それならば外国に行けば何とかなるのではないか、と単純に思いついたんだ。当時、日本は水産業の最盛期。水産大学に入れば何とか外地に出るチャンスがあると考えて2年浪人して入学した。
  運良く卒業と同時に南洋真珠の仕事を紹介され、採用となって、豪州に赴任後9年半、木曜島に住んだ。でも、日本の会社というのは外地にあっても体質は変わらないもので、いろいろと制限があったの。それがだんだん窮屈になったのかな。自分の好きな道で好きなように生きるには独立するしか手がない、と。思い切って退社し、空手道場に夢をかけたんだ。
  以来31年間、空手をやって何とか生活してきたけれど、道場が私の職業という意識はあまりなくて。ただ毎日稽古し、真面目に指導してきただけ。師弟関係にはあるけれども、人間同士の対等の立場を尊重し、かつ日本の文化を教えるというアイデンティティーに基づいた信念を通してきた。空手道場は人を倒す技術を指導するからこそ、その背景にある心の伝達が大切になる。そんな方針だったし、これからも変わらない。…サテ、何歳まで稽古を続けられるかナァ(笑)。
  私は日本で生まれたし、空手の稽古も子どものころからやってきた。まったく何の考えもなく、「私は日本人」と思ってきたわけだ。 
  道場を開いていると、いろいろな人間がやって来る。私を通して日本の文化に興味を抱いた弟子たちに質問を受けることがよくある。しかし、戦中・戦後の日本のことなどを聞かれると、自国の歴史と文化について何も知らない。日本の歴史上、以前の敵国であった豪州に世話になっているのだから、いかに日本が戦ったのかを知っておくべきだと思った。私たちは自分の国の良さを知らなさ過ぎる。このことに気が付いたんだな。
  豪州で、外から日本を見て考える機会を得た。日本には素晴らしい精神文化があったということ。それを知るにつれ、私は自分の国を誇りに思う。豪州に住んでいたお陰で、私は日本人になり得たのだと思う。
  (このインタビューの最中に)31年前の弟子から電話があった。「センセイ、今から釣った魚を持っていくヨ」。嬉しいことだ。私にはそんな弟子たちがたくさんいる。空手の稽古が毎日できて、気持ちのつながった人間関係の中で生きられたら、それで十分。何も望まないナァ。


トムソン木下千尋さん
Profile

■トムソン木下千尋(トムソンきのしたちひろ)

東京生まれ。学習院大学卒、アリゾナ州立大、修士、博士号取得。ニュー・サウス・ウェールズ大学ジャパン・コリア・スタディーズ学科長/教育学博士。主な勤め先は、アリゾナ州立大学、シンガポール国立大学、ニュー・サウス・ウェールズ大学。

「立派になった卒業生に声をかけてもらうのは
教師冥利に尽きます」

トムソン木下千尋さん
ニュー・サウス・ウェールズ大学ジャパン・コリア・スタディーズ学科長/教育学博士

 始まりは、「自分は日本人で日本語ができるから、外国人に日本語を教えてやろう」という、無知で傲慢なものでした。アメリカで外国語教育、言語習得研究などを勉強後、アメリカ、シンガポールの大学で日本語を教え、その後1993年、シドニーにやって来ました。
  当時は「つなみ」と言われた日本語ブームの真っ只中、日本語の学生数は年々増えていて、日本の経済力に牽引され、将来仕事で日本語を役立てたいという学生が多かった時代です。今も当時もオーストラリアは日本語教育大国で、シドニーに来た当初、アメリカと比較してオーストラリア人には日本語が非常に上手な人が多いと実感したのを覚えています。
  来豪から現在にいたるまで、シドニーのニュー・サウス・ウェールズ(NSW)大学でたくさんの学生たちに日本語と日本の文化を教えてきました。ここで学んでいった学生たちは、外務省や国連で勤務していたり、日本と共同で映画を作ったりと、さまざまな分野で活躍しています。先日、香港に帰国した卒業生から、現地のインテルで日本担当をしているというメールが届きました。また先日行われた領事館のイベントでは外務省に勤めているという卒業生に声をかけられました。立派になった卒業生に声をかけてもらうのは教師冥利に尽きます。また、2000年に開設された日本語応用言語学の卒業生は、台湾、韓国、日本をはじめ、さまざまな国で日本語教師として働いています。大学院で学んだことが少しでも生かされているなら、本当にうれしいです。
  オーストラリアは懐の深い国だと思います。NSW大学は私が勤めた3つ目の大学ですが、本当によくしてもらっていると思います。外国籍で女性の私を偏見なく雇用し、オーストラリア人と同じ待遇で処し、業績は同等に認め、発言権を与えてくれます。また、私は、オーストラリアの持つ透明性が好きです。“Fair go”の精神が生きているわけです。
  オーストラリアは日本語教育大国だと言いましたが、それでもまだこの国では外国語一般の地位が低く、英語だけできればいいという風潮が払拭できません。オーストラリアの若者が皆、何らかの外国語に精通して大学を卒業していくような、そんな動きが興していけたらいいと思っています。
  NSW大学の日本語プログラムはシドニーの日本人コミュニティーの皆さんにたいへんお世話になっています。日本人コミュニティーと学習者コミュニティーの橋渡しをして、両者が互恵的に学べる場を作っていく仕事は、今の私の立場でできる1つの社会貢献かもしれません。



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